"きらーん"と光る一節(仮)ふたつめ。


更新するのに重たいので、わけました。
内容は変わりませんよ。

(8/7更新)
文責:Archa

立川健二1986『「力」の思想家ソシュール』(叢書 記号学的実践(7)) 水声社より

最近勉強し始めたソシュールの本からです・・・。

p29−30より

 十九世紀の後半には、近代人の全世界観は、もっぱら実証科学によって徹底的に
規定され、また実証科学に負う「反映」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性とは、
真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらす、ということを意味していた。

単なる事実学は、単なる事実人しかつくらない。(中略)この事実学はわれわれの生存の
危機にさいして、われわれに何も語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な展開にゆだねられている人間にとっての
焦眉の問題を原理的に排除している。その問題というのは、
この人間の生存全体に意味があるのか、それともないのかという問いである。

 われわれの「生」のいきいきとした関心事と無関係な「事実学」は、断固としてこれを
退けなければならない。

このような「事実学」としての実証主義は、丸山圭三郎のことばをかりれば、

土俵上での整合性に敏感であっても土俵そのものを疑う鋭意には背を向け」ている。

つまり、それは、「客観的事実」の存在を素朴・盲目的に信仰しているために、
本来多様であるはずのレクチュール(読み)の可能性を抑圧するばかりか、
「生」と無関係な些末事の探索へと我々を封じ込めてしまうのである。

文責:Archa
同文献P53より
これはなかなか考えたことがなかったですね・・・・(どきどき)

視点」という表現は、ある事物がすでに存在しており、それに対していくつかの対象
視点」をとるという構図を、不可避的に喚起してしまう。

よくひとが、「モノゴトは一面的にではなく、さまざまな視点から見なければならない」などと
いうときのように。しかしながら、このようないいかたは、「実体に縛られた思考法に
帰属している
といわざるをえない。

それにたいして、言語において「実体」が存在することを否定している以上、
ソシュールが考えていたのは、実体=対象をさまざまな"視点"からみるということでは
いささかもなく、逆に視点の方が対象を創り出すという、パラドクシカルな構図だったのである。

したがって、この創出された「事物」ないし「対象」は、実体と錯視されることはあれ、
けっして実体ではないのだ。

文責:Archa
同文献P64より

これは、やや難しいですね・・・・

ソシュールが「現在的分析」という方法を採用せざるを得なかったのは、まさに言語には実体が
存在しないからなのだ。これまでの「文法学者」たちが想定していたように、言語学が実体的な対象を
持っているのならば、わざわざこのような分析の基準を探求したりする必要はない。

 これにかんしては、次に引用する第一回講義の一節が雄弁に語っている。

1 言語学においては、接尾辞がそれ自体で存在しているかどうかと問うことはできない。−このような問いには、意味がない

ただ、それが語る主体の意識の中に存在しているかどうかと問うことだけができる。
一つの言語要素が存在するということは、語る主体がそれに付与する価値−明確な意味−とともに、
それがまえからうしろへ、あるいはその逆に境界確定されるということなのである。

しかし、即自的(en soi)には、虚構的な語avakerにおいて、ava-kerという境界確定には、
論理学的な価値もなければ心理学的な価値もない。何の名において、-akerではなく-kerをとるというのか。

2 ある要素の過去における存在もまた、意味をもたない歴史を気にかけてはならない
じっさい、語る主体たちは、自分たちの言語状態に先立つものについては何も知らない。
歴史的諸条件によって、変化がこれからどのようにおこなわれるかとういことを、
ひとはけっして予測することができない。


文責:Archa
同文献P100より

うーん、これはわかりやすいですね。

 個々人のパロールはそれぞれ差異をはらんでいて完全に等質ではないので、ソシュールはある
言語共同体で発せられたパロールを等質化したものを「ラング」と定義した
のであった。

だとすれば、つぎのようなことが考えられるのではないだろうか。個人というものは、
自分をとりまくさまざまな他人の言表のなかからある種の自己同一的な意味=差異を取り出そうと
することを通じて、個人でありながらも社会的なラングの近似値を所有しているのだ、と。

語るときにももちろんラングという共同的な規範は必要であるが、それでも語る行為には個人的偏差が
つきものである。バイイも指摘していたように、語る主体は無意識のうちにラングから逸脱した要素を
発しているからだ。

ようするに、「語る」というのは、私ひとりのことばを語るということなのだ。
それにたいして、「聴く」というのは、私以外の(あるいは私をふくめて)すべての不特定の他者たちの
ことばを理解するという営為なのである。

だから、個人は、種々雑多な他人たちのパロールを理解するためには、そこにあって自己同一的なもの、
すなわち共同体の全成員によって暗黙裡に承認されている有意味単位を分析することが必要なのだ。

つまり「語る」という行為がつねに「差異」の体験であるのにたいして、「聴く」という行為は、「同一性=社会性」の体験なのである。

(8/13更新)
文責:Archa
さらにソシュール特集です。
前掲文献より
p138

 第一の幻想に屈して、フランス語をなにか不動のもののように思いえがく者は誰でも、
このときに、あるいはなにかのときに、西暦500年と900年の間の時代に何が
起こったのかをまったく理解できないということに、必然的になる。

 そのとき、かれはひとつの飛躍を想定しているのだ。改行のような飛躍、魔法の杖の
ひとふり、あるいは途方もない出産によって、ひとつの固有語(イディオム)が
突然もうひとつの固有語(イディオム)を生み出すというわけだ。

同様に、もしそのひとが連続性(continuite)という観念を抹殺して、フランス語は、
ミネルヴァがジュピターの脳味噌から出てきたように、ラテン語の母胎からある日
完全にできあがって出てきたなどと創造するならば、不動性(immobilite)という
ソフィスト的詭弁のなかに間違いなくおちいってしまうのである。

かれはとうぜんながら、その二つの創造的な飛躍の間で言語(ラング)は均衡と
休息の状態(etat d'equilibre et de repos)にある、少なくともそうした飛躍に
対立するような均衡状態にある
と、想定している。

ところが、現実には、いかなる言語(ランガージュ)においても、永続的で、安定した
均衡というものは決して存在しない
のだ。
(il n'y a jamais en realite un equilibre permanent,stable dans aucun langage)。

したがって、われわれは、諸言語の不断の変形の原理
(le principe de la transformation incessante des langues)
を絶対的なものとして立てるのである。

文責:Archa
前掲文献p139より

 1891年の講演原稿にみられるソシュールの言語観は、たとえ言語状態という
静態的なシステム、あるいは力の均衡状態がみいだされるとしても、それは
言語変化の絶えざる流れのなかに浮かぶ孤島のようなものにすぎないというものである。

ソシュールにとって、言語とはなによりもまず生成・変化の流れであって、
構造主義者たちが特権化したがるシステムは、そのなかの一瞬のよどみのようなものにすぎない

ソシュールの同時代人ボードワン・ド・クルトネ(Baudouin de Courtenay)
のことばをかりれば、「言語の静態は、ようするにその動態の中の一特殊例にすぎない」のだ。

ソシュールにとっての言語とは、"システム"でもなければ"構造"でもなく、
"運動"であり"変化"なのである

(8/14更新)
文責:Archa
前掲文献P310より

 観念論起源目的の根拠律にとりつかれている。

この思想の地平では、起源が目的を指示する。
あるいは起源への問いは、目的(終わり)への問いから提起される

。 目的(世界意味、世界歴史の意味、世界と歴史の究極目的)は自分を先取りしつつ、いわば前未来系で、
起源の遠いへと投影される。なんらかの目的があって、それが回顧的に過去へと投影されて、
世界の意味と秩序を構成する原動力になる。

目的は、宗教の形式をとろうと、神学=形而上学の形式をとろうと、あるいはその転倒である既成の唯物論の
形式論をとろうと、要するにどのようなユートピアの形式をとろうと、目的論的構造はいつも不変不動である

この目的論的にして終末論的構造をもつもの、それが
観念論/唯物論(実念論/唯名論、観念論/実在論、合理論/経験論、等々の変形をもつ)
のカップルの基本前提である。

この枠内にあるいっさいの実在論的、経験論的等々のB物論b>偽装された観念論である。
転倒も対置も観念論の批判にはなりえない、それどころか目的論的/終末論的構造を強化するだけである。

(8/17更新)
文責:Archa
これは、やっと最近購入した(なんと5700円!)、
P.ブルデュー・シャンボルドン・パスロン1994『社会学のメチエ』田原音和・水島和則訳
"le metier de sociologue prealables epistemologiques"
(pierre bourdieu・jean-claude chamboredon・jean-claude passeron著)
より
p172の、
テキスト
ガストン・バシュラール『適用合理主義』より

 監視の監視がつねに油断のない警戒を行い、自己を教育しうるようになるためには、
その前に自ら誤りを犯していなければならない
客観的知識と合理的知識との精神分析はこの水準で働き、

 理論と経験、形相と質量、厳密性と近似性、確実製と蓋然性の諸関係

を明らかにする。
 これら弁証法的な二項対立は、不注意に一項から他項へと意識が移行することがないように特別な検閲を要求する。

 こんな時こそ哲学の妨害をうち破る好機であることが多いのだ。
 かくも多くの哲学が、一つの超自我を科学的教養に対して押しつけようとしているからである。

 実在論、実証主義、合理主義などを盾にとりながら、哲学はしばしば上記の検閲を省略しようとする
この検閲こそが合理的なものと実験的なものとの関係や限界点を保証づけるものだというのに

 あたかも絶対的なものであるかのように一つの哲学にいつもよりかかるというのは、
正当かどうか必ずしも研究されてはいない検閲を実行することに等しい

 それとは違い、経験主義と合理主義との二面に働きかける"監視の監視"は多くの点でこの二つの哲学の
相互的な精神分析である。合理主義と科学的経験とが行う検閲は互いに相関的なものだ。

前掲p178より、
テキスト
アブラハム・カプラン『探究の行為−行動科学のための方法論』より

 使用中の論理を、再構成された論理、とりわけあまりに理想化されすぎた論理と混同するさいの
最大の危険は、それによって科学の自律性がわずかなりとも損なわれてしまう点である。

 論理の規範的作用は、必ずしも使用中の論理を改良する効果を果たすわけではない。
反対に、使用中の論理を再構成された論理の規約に厳しく従わせるように成るということもありうる。

行動科学が、あまりに躍起になって物理学の真似をしようとするのはやめた方がいい、とよく言われてきた。
しかしこの忠告は誤っていると私には思われる。

真理を探究するうえで、すでにその有効性が証明済みの理解の手続きこそ、間違いなく正しいものと
考えねばならない。
大事なことは、私の考えるところ、特殊な再構成された論理が、物理学の論理であると僣称するところの
ものを行動科学が模倣しようとするのをやめるべきだということである。

前掲p180より、
テキスト序文
p180
ブルデューテキスト序文、「認識論的障害としての矛先観念」より

常識的「真理」をくつがえす、というのが方法論の決まり文句になってしまったので、
この格律の批判力が失われてしまう危険性がある。
バシュラールとデュルケームが指摘しているように、常識的偏見の一つひとつを逐一批判して
いったとしても、常識の根底にある原理をラディカルに問い質すことにはならないのである。

「現実と直面したとき、人間の精神は決して若くはない。それはむしろかなり年老いている。
なぜならかれの精神はその年齢相応の先入観を有しているからである。

中略

俗説(ドクサ)はつねにまちがっているのである。俗説はよく考えない。
俗説は欲求を認識として読みかえたものである。
対象を有効性によって示すにとどまり、対象を認識することからは手をひく。

中略

たとえば、浮薄な俗説を、一時的な当座のモラルとして受け入れて、個々の点で修正していくと
いうことだけに満足してはならない。科学的精神は、理解していない問題や、われわれが
明快に定立できない問題について一つの意見をもつことを禁じるからである。

社会学的知識がなかなか進歩しなかったり、誤りをかかえていたりするのは、
考察された現象が複雑で、とらえどころがないといったような学問以外の原因のせいだけではない。
それ以上に、科学としての社会学にとって障害になる矛先観念が社会的機能を果たしているためである。

標本的な俗説が力をもっているのは、俗説も体系的な説明の企てたらんとしているから、
という以上に、この俗説の遂行する社会的機能自体、システムをつくっているためなのである。

前掲p181より
テキスト
エミール・デュルケーム『社会学的方法の規準』より

表象というものは、たとえ理論的にはまったく異なっていても、こうした役割を有効に果たしうることがある。
 すでに幾世紀も前から、コペルニクスは、天体の運動についての人々の感覚の誤りを一掃してきているが、
にもかかわらず、今なおわれわれは、日常一般にはその錯覚にしたがってわえわれなりの時間の配分を行っている

 いったい、一つの観念がある一つの物の性質から要求される諸反応を、うまく惹起するためには、
必ずしも当の観念がその物の性質を忠実に表現している必要はない

ふつう、そのものが有用であるかそれとも有害であるか、どのような点でわれわれに役立つか、
あるいはわれわれの利益に反するかを感知させてくれれば、それで足りるのだ。

さらにまた、このようにして形成される諸観念は、右のような実用的な適切さを、おおよその近似的なものとして、
単に大多数の場合に即して示しているにすぎない。いきおい、危険で適切さを欠く場合がじつに多い。

したがってどんなやり方であれ、それらの観念を練り上げることによっては、どのみち現実の法則を発見するには
いたるまい。むしろ、それらの観念は、物とわれわれとの間に設けられた一種の遮蔽幕のようなものであり、
これを透明だと信じ込めば信じ込むほど、いっそうそれによって諸物はわれわれの目から覆い隠されてしまうのだ。

(中略)

 これらの観念は、われわれの内部にありながら、それにとどまらず、くりかえし行われる経験の所産で
あることからして、反復およびそれに由来する習慣のおかげで、一種の支配力と権威を獲得する

 これから自由になろうとするとき、われわれはそれの及ぼす抵抗を感じることになる。
そして、われわれは、自分に抵抗を及ぼしてくるものを、現実的なものとみなさずにはいられない。

こうしたもろもろの事情が働いて、人はこの矛先観念のうちに真の社会的現実をみてしまうことになる。

(8/26更新)
文責:Archa
これって、昔に読んでたんですが、書くの忘れてました(笑)

A.ギデンズ1987『社会学の新しい−理解社会学の共感的批判−』より

P30より

b>確実性の追求−仮定や先入観に束縛されない知識の追求−が、不可欠な課題であり、
また個人意識の考察を通してしか達成できない課題でもあるという見解は、
聖職者政治の支配から脱却して以来、西欧哲学に深く浸透している見解である。

しかし、個人の意識が、他の種類の知識、O在的Eや他者についての知識に優先すると
主張するためには、結果的に、他者が一種の影のような副現象的存在では決してないことを
明らかにするための絶望的な努力がなさらなければならなくなる

したがって、フッサールにとって志向性とは、主体と客体との内的関係であり、そして、
自我が壮大な心的行為のなかで経験的世界を脱することのできる現象学的還元の方法とは、
こうした志向性が主体と客体との内的関係であるという出発点に依拠することになるのである。

フッサールは、それ以前の意味と経験に関する理論で受け入れ難い前提とされていたと
みなすことがらにたいする反論として、志向性の概念を展開させ、そして、その過程で、
意味付与のCデー化の行為d視し、意味付与の対象との区別をことごとく放棄するにいたったのである。

文責:Archa
これを、上の志向性の説明とあわせて読むと、すさまじいまでのイリョクを発揮します(笑)。
同文献P32〜34

(P26)
私は、行為の解釈と説明に関するウェーバーの立論のほとんどが、その後の方法の哲学における展開に照らして、
すでに時代遅れのものになっているとみなす

(中略)

P32
 たとえば、人が木を伐るといった行為をおこなっている場合、われわれがその人の
していることの意味をb>直接の観察b>によって理解すると考えていた点で、ウェーバーは間違っていると、シュッツはいう。

 なぜなら、その人の活動をb>木を伐っているb>とよぶこと自体、すでにその活動を解釈しているからである。
それは、q観的な意味閨A観察された行動を広範囲に及ぶ解釈の脈絡のなかにあてはめていくことを
いうのである。

 さらに、ウェーバーの有意味的行為の検討では、行為が挿話的出来事であり、また、行為者の主観的な
観点からは、ベルグソンのいう意味合いにおいて持続性をもつという事実、すなわち、
行為はb>生きられたb>体験であるという事実が考慮に入れられていない。

 この点への注意を怠っているがために、ウェーバーは、行為の観念の多義性、つまり行為の概念とは、
主観的体験そのものにせよ完了したおこないにせよいずれにも関連しうる点を理解していないのである。

 われわれは行為そのものに没頭しいているのであるから、生きられつつある行為にわれわれが
意味をt与するlえるのは、誤りである。

 体験にたいする意味のb>付与b>とは、行為者か他者がその行為を再帰的にみることを意味するのであって、
過ぎ去ったおこないにのみ過去を振り返りながら適用していくことができる、そうした類のものなのである。

 したがって、体験は本質的に有意味なものであるといういい方も、なおさら誤りなのである。
黷轤烽A現在経験されつつあることがらは意味をもたないのであるB

行為を再帰的に範疇化する場合、それは、行為者が達成しようと努める目的やもくろみの同定に依拠する。

 もくろみは、ひとたび達成されれば、一時的な経験の流れを完了した挿話的出来事へと変えていくのである。
この点について、シュッツは、ウェーバーが行為のもくろみ−将来の達成への方向づけ−をその行為の
摎R@と区別していないことを批判する。

 もくろみ、つまりI@は、それ自体では何の説明的意義ももたない。

 このことを説明するのに、シュッツは、雨が降ってきたときに傘をさす行為を引き合いに出している。
Pをひらくというもくろみは、その行為の原因ではなく、たんなる予想された先行的おこないにすぎない。
 逆にいえば、傘をひらくという行為は、そのもくろみに『かなう』こともあるし『かなわない』ことも
あるのである。それにたいし、降雨に気付くというだけでは、何のもくろみも示されない。

 降雨に気付くことと、『かりに雨に身をさらせば服が濡れる。それは好ましくない。
だから、それを防ぐために何かしなければいけない』という判断との間にはなんの『結びつき』もない。
『結びつき』やつながりが生み出されるのは、自分の過去の経験の全体連関に注意をむけさせようとする
私自身の志向的行為によってなのである。

文責:Archa
同文献P43より

社会科学で用いられる合理性の判断基準

−つまり、概念は正確に規定され、できるかぎり一般化され、そしてRンテキストにとらわれない烽驍驍|

 は、一般の行為者に興味を引き起こさせる判断基準とはならないのである。

実践的な社会の理論家として、一般の行為者は、世界が(自然的世界も社会的世界もともに)外見上
そうみえるとおりのものである−ガーフィンケルの著作のなかにあれこれ装いながらも頻繁に突然
あらわれてくる謎めいた表現−という想定を確認するように、自分の経験を首尾よく整理していく。

 A二人の人間の先行きどうなるかわからない対応関係のように、実際の外観上の目的と
意図された目的とのおこりうる一連の関係のなかから、人は、あらかじめ想定された疑う余地のない確実な
対応関係が是認されたものとなることを期待する。

 人は、相手が多少とも同じように同一の期待を持つことを求め、そして、自分が相手にたいし関係の維持を
期待するように、相手も自分にたいし関係の維持を期待することを求める
のであるB社会科学の観察者のとる
態度は、それとは正反対のものである

 ものごとはそれが現実に現れてくるとおりのものであるとする確信を一時停止させ、R的態度Eする
実際的要求によっては(理念的に)影響をうけないものなのである。
科学者の態度と一般の人々のとる態度とは、たがいに融合せず、根本的に矛盾する。
それゆえ、ウェーバーのいうような理解社会学のモデルを社会的行為の揄%に適用させる際に
出くわしてきた困難な問題が、ここにも生じてくるのである。

したがって、社会生活は、行為者によって営まれるのであるから、w的態度驍謔br> 合理性の基準に調和させようとする一連の弱々しい企てとしてではなく、まったく反対に、
こうした基準が本質的に有意関連性をもたない一連のまばゆいばかりの遂行としてみなされるべきなのである。

(9/1更新)
文責:Archa
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(その他の詳細はわすりた)より

テキトウに読んでいる本から(笑)、ちょっとだけ挙げていきます。
この『論考』は、このような散文形式なので、かなり考え込んでしまいます。

p65
2.0233 同一の論理的形式をもつ二つの対象は、それらの外的な性質を無視すれば、
ただそれらが異なっているという ことによってのみ、たがいに区別される。

2.02331 ある物が他の物のもたぬ性質をもっているか、あるいはすべての性質が共通であるよう
ないくつかの物が存在するか、このどちらかしかない。はじめの場合、われわれは直ちに、
記述によってその物を他の物と選別し、それを指し示すことができる。あとの場合、
そのいくつかの物のうちの一つを示すことは、一般に不可能である。

なぜなら、その物を選別する性質がなにもなかったとすれば、わたくしはそれを選別することが
できないからである。もしわたくしにそれができれば、その物はまさに選別されてあるのだ。

同文献よりP61〜67

2 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。

2.02 対象は単一である。

2.027 不動のもの、存続するもの、および対象。これらはみな同一である。

2.0271 対象とは、不動のもの、存続するものである。対象の配列は、変動するもの、移ろいやすいものである。

2.0272 対象の配列が事態を構成する。

2.03 事態のうちで対象は、鎖の輪のように、相互に組みあわさっている。

2.031 事態のうちで対象は、特定の仕方で交互に関係する。

2.032 事態のうちで対象が結合する仕方が、事態の構造である。

2.033 事態の形式とは、その構造の可能性である。

2.304 事実の構造は、いくつかの事態の構造によって構成されている。

2.04 成立している事態の全体が、世界である。

2.05 成立している事態の全体は、いかなる事態が成立していないか、ということをも決定する。

2.06 事態の成立・不成立が実在である。(われわれは事態の成立していることをプラスの事実とも呼び、事態の成立していないことをマイナスの事実とも呼ぶ。)

同文献p72

3.02 思考は、思考される状況の可能性を含みもつ。考えうるものはまた可能である。

3.03 われわれには非論理的なことが何ひとつ考えられない。さもないと、われわれは
非論理的に考えねばならなくなるから。

3.031 かつてひとは言った、
_はすべてのものを創ることができる、ただ論理の法則にさからうものを除いてB
−つまり、_理的なEについて、それがいかなるものかを語ることなどできぬだろう、ということ。

3.032 幾何学においては、空間の法則に矛盾する図形を座標で表すことはできないし、
存在しない点の座標を示すこともできない。_理に矛盾する鮪黷\しえないことも、
それと異ならない。

3.0321 たしかにわれわれは物理の法則に班する事態を空間的に表すことができる。
しかし法則に反する事態は、これを空間的に表すすべがない。

(9/16更新)
文責:Archa

これは、ちょっと前に読んだ本ですが、まずはほとんど最後の部分からの引用です(笑)。

K.ポパー『歴史主義の貧困』(詳細はわすりた)
p227〜p228より

 選択的アプローチは、歴史の研究において、科学における理論の機能に若干の点で類似した
諸機能を果たすことになるのである。

 したがってそのような接近法が、しばしば理論そのものであるかにみなされてきたのは、理解しうることなのだ。

 しかもその接近法に内在する諸観念のうちで、検証可能な仮説のかたちに定式化できる稀なものは、
それが特称的であると普遍的であるとを問わず、まさに科学的な仮説として取り扱っていいものなのである。
 しかしながら、それらの歴史的@烽輸見地驍烽Aテストすることができないのが通例である。

つまり、それを反証することが不可能であり、したがって一見それを裏づけるように見えることが、
たとえ夜空の星のごとく数多くあるとしても、それは価値をもたないのだ。

そのような選択的見地もしくは歴史的関心の焦点を、それがテスト可能な仮説として定式化しえない場合には、
歴史的解釈 とよぶことにしたい。

 j主義Aそのような解釈を理論だと誤認している。それは、j主義蛯・Tの一つである。

 たとえばj驍烽K級闘争の歴史として、あるいは覇権を狙う諸民族の闘争の歴史とか、
宗教的観念の歴史とか、などとして解釈することは可能である。
 それらはすべて、多かれ少なかれ興味ある見地であり、"それ自体としては"完全に申し分ないものなのだ。

 しかしj主義Aそれらをそのようなものとして呈示するのではない。
彼らは、解釈の多岐性が必然的に存在すること、しかも暗示性と任意性の双方の点で、
基本的に同じレベルにある解釈が必ず多数ありうることを了解しないのである。
(もっとも右の点で同じレベルだとはいえ、ある解釈がその肥沃性fertilityの点でより優れるということは
ありうるのであって、このことは若干の重要性をもっている。)

 その代わりに彼らは、jは階級闘争の歴史である凵Xと主張することによって、
解釈を教説(ドクトリン)あるいは理論として呈示している。
 そして彼らは、自分の見地が肥沃であり、多くの事実がその見地の光の下で秩序づけ、
解釈しうることを実際に見い出すと、そのことを彼らは、自分の教説の一つの確認、あるいは
証明であるとさえ誤認するのである。

(中略)

 このディレンマを脱出す路は、いうまでもなくなんらかの見地の採用が必然であることを明白に自覚し、
その見地を明白に言い表し、それが多くのものの一つであること、そしてその見地が理論の形態を
とる場合にも、それがテストしえないものであるかも知れぬ、とつねに意識しつづけることである。

(10/7更新)
ピエール・ブルデュー著 石崎晴己訳 1991 『構造と実践(structure et pratique)』藤原書店より

1−2p {の読者へ謔

 概念、方法、技法といった思考の用具が全世界に共通のものとして普及しているとはいえ、
社会科学の領域にあっては、異なる国動詞のコミュニケーションには依然として困難がつきまとう。

社会科学は、個々の歴史的ケースの特異性の中にもぐりこみ、その歴史的ケースのデテール、
精妙極まりないニュアンスまでも捉える
−−フランスの高等専門学校に関する最近の論文において、私がやろうとしたのは、こういうことだった−−
のでない限り、たとえば学校制度が、文化資本の再生産の、ひいては社会構造の再生産の確実な遂行に
寄与するそのメカニズムといった、全世界に共通のメカニズムを把握することはできないのであり、
もしそれをしないのなら、正確さを欠いた一般論
それを理論というものと混同してしまう誤解があまりにも多すぎるのだが
に閉じこもる他はなくなってしまうのである。

(10/29更新)
文責:GENさん  GENさんごめんなさいっっ&Thanks!

『愛してその人を得ることは最上であるが、
  愛してその人を失うことは、その次によい。』
 〜ウィリアム・メークピース・サッカリ〜
     ↑(イギリスの小説家)
GENさん談:なぁんか、おカタい話がおおいので、
たまにはちょっといろっぽい言葉をと思って(笑)

GENさん、投稿ありがとうございました。ずっとまえに していただいてたのに、今気づきました(笑)。

この言葉、前にも感想書きましたが、経験の浅いArchaには、わかりません(爆)。

でも、ありがとね。

(11/14更新)
文責:さとうけいすけさん THENKS!

Dan Sperber
"Culture and Matter" (in J.-C. Gardin & C. S. Peebles (eds.),
Representations in Archaeology, Indiana U.P., 1992, pp.56-65)

p.57より

「社会科学の場合、存在論の理念にせよ存在論にかかわる実践にせよ、
たとえ控えめにみても、満足のいくものではない。

実践の場では、もう何でもありである。

社会科学の世界は、存在論的地位が定義されずじまいのものが
ひしめき合っているのだ。
権力、国家、イデオロギー、宗教、魔術、犠牲、神話、社会的身分、
階級制、国民、親族関係、結婚、規範、価値、社会結合、文化統合、
アノミー云々。

これらの対象やら特性は皆、一体どんな物質に属するというのか?」

Archa:まるまま唯物論的な議論ですね。 確かに、我々が「概念をつくるために、概念をつくる」という現状を考えれば、
「ううぅぅ」ってなってしまいます(笑)。

(12/1更新)
文責:Archa

神野慧一郎1998(新装。旧版は1984)『ヒューム研究』ミネルヴァ書房より
p50-51

啓蒙の時代たる十八世紀は知識の進歩の時代であり、それは理性の進歩の時代であった。
そして敬虔なキリスト教徒が好むと好まざるとにかかわらず、教育を受けた人の世界からは
神秘が次第に消えていった。にせ科学は科学に道を譲り、聖なる力の介入による奇蹟への
信仰は懐疑主義によって酸化腐食され、科学的な宇宙論によって圧倒されつつあった。

そしてこれは体系化された合理主義の勝利というよりは、日常生活における合理的な考えの勝利であり、
その意味での理性の隆盛であった。この時代には、理性と人間性とがしばしば混同された。

そしてこうした傾向は、啓蒙主義の価値観を変え、キリスト教の禁欲主義ではなくヴォルテールの
次のような主張が世の共感を得るに到る。

l類に役立つこと、あるいは人類を快適たらしめることに卓越せる人を私は偉人と呼ぶ。
属領を略奪するような人物はただの英雄にすぎない。

神に代わって人間が関心の中心になったのである。

同文献
P69

 知覚の因果説が、知覚を印象と観念とに分類することによってどのような関係にあるかという点に
戻って言うならば、マクナブが指摘したように、われわれが因果関係を用いて印象と観念とを
区別しうるためには、われわれは物理的実在をすでに知っていなくてはならぬのであることを銘記すべきである。

 しかし因果説によって外界の存在証明を行うことは論点先取の循環論である。
それ故、因果説という仮説はそれだけでは発効しえない。その意味では因果説から出発して観念と
印象とを区別することは不可能である

 知覚の因果説が知覚する心と実在との二元論を論証するのではなく、
二元論が前提されていてこそ、知覚の因果説が成立しうるのである

知覚の因果説は世界の構造の基本形式を解明するための根拠となるものでなく、
二元論的世界構造の中でその機構を解明するための方法的仮説であろう。

知覚の因果論は科学上の仮説としては極めて有効である
しかし、哲学的には、それはすでに二元論を前提せざるを得ないという弱点をもっていた

あまり更新できませんが(というより最近は本をあまり読んでませんが)、よろしくおねがいします。
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