きらりと光る一節


ここでは、本を読んで「目からウロコもん」だった文章の一節を
紹介するコーナーです。

みなさんからの投稿も、お待ちしています!


2001.11.17
R.ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、
現在のいろいろな考え方の基礎になっているものです。

みなさんが、新しい考え方を求めているならば、
「テツガクなんて・・・」といわずに、一度見てくださいな。

読むのは3回目ですが、テキトーにメモをとったものを載せておきます。

p56
2.0233
同一の論理的形式をもつ二つの対象は、それらの外的な性質を無視すれば、
ただそれらが異なっているということによってのみ、たがいに区別される。

2.02331
ある物が他の物のもたぬ性質をもっているか、あるいは、
すべての性質が共通であるようないくつかの物が存在するか、このどちらかしかない。
はじめの場合、われわれは直ちに、記述によってその物を他の物と選別し、
それらを指し示すことができる。あとの場合、そのいくつかの物のうちの一つを示すことは、
一般に不可能である。なぜなら、その物を選別する性質がなにもなかったとすれば、
わたくしはそれを選別することができないからである。

もしわたくしにそれができれば、その物はまさに選別されてあるのだ。

p142
5.44
真理函数は実質的な函数とはちがう。
たとえば二重否定によって肯定命題を作ることができる場合、
否定は――なんらかの意味で――肯定の中に含まれていたのであろうか。
'〜〜p'は〜pを否定しているのか、pを肯定しているのか、あるいはその両方なのか。
'〜〜p'という命題は、一つの対象をあつかうごとくに否定をあつかっているのではない。

というより、肯定の中には、すでに否定の可能性が予定されているのだ。

p145
5.452
論理の記号体系に新しい補助手段(注:具体的には、定義のこと)を導入することは、
つねに多くの効果をもたらさなければならない。

新しい補助手段が―いわば何食わぬ顔をして―カッコやダッシュにかこまれて、
論理の中に入り込んできてはならない。

p147
5.47
すべての命題の形式について、およそ前もって語りうるところのものは、
ことごとく、一瞬のうちに語られねばならぬ。これは明白である。

けだし、要素命題のうちには、すべての論理的操作がすでに含まれている。


2001.11.23
今回もヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』です。

p171

5.632
主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。

世界のどこに、形而上学的な主体が認められるのか。
君は、眼と視野との関係とを全く同じ関係が、ここになりたつという。
しかし君は、自分の眼を実際に見ているわけではない。

そして、視野のうちにあるいかなるものからも、それが眼によって
見られていることは推論されない。

・・・中略・・・

5.634
これは、われわれの経験のいかなる部分も先天的ではないことと関係している。

われわれが見るすべてのものは、それとは別の仕方であってもよかった。
およそわれわれの記述しうるすべてのものは、それとは別の仕方であってもよかった。

事物には、先天的な秩序は存在しない。


2001.12.9
今回は、ちょっとだけ勉強中の用語「理念型(りねんけい:ideal types)」についてです。

スティーヴン・コールバーグ著1994
『マックス・ヴェーバーの比較歴史社会学』(甲南大学ヴェーバー研究会訳1999)ミネルヴァ書房

p119より
 ヴェ―バーは、基礎的な社会的現実について、(中略)具体的な出来事、相互連関を
もたない諸事件、断続的に生起する出来事、これらの果てしない流れとして受けとめている。

 この迷路のただなかにおいて、人々は、断片的で込み入った諸状況の無縁の流れのなかで
彼らを圧倒する際限のない現実という混沌に直面する。

(中略)

 いかなる科学的研究も経験的世界の具体的個別性を完全に把握することは決してできないゆえに、
現実を「それが実際にあるがままに」、あるいは「それが実際に生起したままに」余すところなく
記述することは不可能である

 その結果、この現実それ自体に固有の明瞭かつ「自然の」分岐点を発見するいかなる可能性も排除される
 いかなる「法則」も必然的に、現実の不完全な縮小たらざるをえない。
経験的諸事象は複雑で、無限で、入り組んだ性質を持っているので、社会科学者たちがどれほどの
労苦を払っても、絶えず変化しているこの現実から取りだされるわずかな一片」であっても、
その複雑さをそっくりそのまま「知る」ことは実際にはかなわぬことなのである。

 現実に対するこのような見方を前提とするならば、諸概念は、ヴェーバーにとっては、
現実を正確に捉えるものではなく、むしろ研究を補助するのに役立つものである。


2002.1.11
最近あまり本が読めてなく、ずいぶん前に読み始めた本です。
といっても、3つ同時に読んでますが(爆)。

C.ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』

P50
(ロラン・バルトとヘイドン・ホライトが)それぞれ依拠している観点は必ずしも
一致するものではないが、両者が陰に陽につぎのような前提を共有していることは事実である。

すなわち、歴史叙述にとってもレトリックにとっても基本的な目的は真理ではなくて効果性であるということ。
歴史家もレトリシャンもかれらの読者ないしは聴衆を説得することをこころみているのだということ。

歴史家の作品がつくりだすのは、小説がそうであるのと同じく、ひとつの自己充足的なテクスト世界であって、
これとテクスト外的な現実との関係は厳密な検証にかけることはできないということ。
歴史も虚構も、レトリック的な次元を共有しているかぎりで、自己言及的なテクストであるということ。


P80
ここ二十五年ほどのあいだに、立証(proof)という概念は実証主義的歴史学の典型的な一特徴、
あるいはほとんどシンボルとすらみなされるのが通例となってしまった。

そして、立証にはレトリックが対置され、歴史叙述のレトリック的次元を強調すること、
さらには歴史叙述をレトリックと同一視することが、歴史家たちのあいだでなおも根強い
実証主義にたいする論戦のもっとも効果的な武器となってきた。

いまや時代のトレンドとなりつつあるかにみえる「言語論的転回」は、より厳密には
「レトリック論的転回」と定義されてしかるべきであろう。


2002.3.10久方ぶりの更新(でも書いたのは一昨年だったりする)

C.レヴィー=ストロース1972『構造人類学』荒川幾男ほか共訳 みすず書房より
P14

・・・・ではわれわれはボアズの、名目論(ノミナリズム)を極度に押し進めて、観察される個々の事例を
それぞれの個別的なものとして研究すべきなのであろうか?われわれはまず次のことを確認しておかねばなるまい。

すなわち、一方では、双分組織に割り当てられている機能が一致していないということ、他方で、
各社会集団の歴史は半族への分割が極めて相異なった起源から生じているということである。

だからして、諸事例に従えば双分組織は、ある移民的集団による侵略から生ずることもあるし、
二つの地域的に近い集団がさまざまな理由(経済的、人口学的、儀礼的)によって混合することから
生ずることもあるし、一集団内の結婚による交換を保証すべき経験的規則が制度の形に固まることから、
また社会的平衡を維持するためには等しく不可欠と考えられる対立的な行動をその集団内部において
一念の二つの部分、二つのタイプの活動、住民の二つの部分に平均すること、等々から生ずることもある。

それゆえ、この双分組織という概念は偽りのカテゴリーであるとしてしりぞけたくなるくらいであり、
この推論を社会生活のほかの諸分野全てに広げて行くならば、もっぱら社会のために制度などは否定すると
いうところまで導かれるであろう。
民族学と民族誌(前者は後者に還元される)は、文字による資料ないしは形のある資料が欠如しているために
恥ずかしくて真に歴史の名も名乗れない程度の歴史でしかないことになろう。


2002.3.10更新(これも一昨年だったりする)
稲上毅1996「マートン・パラダイムと中範囲の理論」北川隆吉・宮島喬編『20世紀社会学理論の検証』より

P52
第一に、中範囲の理論は、
(1) そこから特定の仮説を論理的に導き出すことができ(仮説の演繹)、
(2) 経験的研究によってその正否が確証される限定された前提群(検証可能な命題)
から構成されている。

第二に、中範囲の理論は個々バラバラのものではなく、
(3) より広い理論のネットワークに結び付けられる(広い理論的ネットワークへの包摂)。

第三に、中範囲の理論は、
(4) 社会行動や社会構造の多様な領域を取り扱うに足るだけの十分な抽象性をもち(経験横断的な抽象性)、
(5) 単なる現象の記述あるいは経験的一般化を超えたものである(超-経験的一般化)。その一例としての
社会闘争の理論は人種的・エスニック紛争、階級闘争、国際紛争などに広く適用されている。

第四に、中範囲の理論は、
(6) ミクロ社会学的な問題(たとえば、小集団研究の中で明らかにされた問題)とマクロ社会学的な問題
(たとえば、社会移動やフォーマル・オーガニゼーション、社会制度の相互依存関係に関する比較研究等に
よって解明される問題)との区別を横断する(ミクロ・マクロ領域の横断

第五に、中範囲の理論は、
(7) 括的な社会学理論(それらは一般的な理論的方針を指示している場合が多い)のさまざまな体系、
たとえば、マルクスの史的唯物論、パーソンズの社会体系論、ソローキンの統合社会学と共鳴する
(包括的一般理論との共鳴)。

第六に、中範囲の理論は、
(8) デュルケームやウェーバーなど古典的理論の定式化を試みた作品群の嫡出子であり、それと直接的に
繋がっている(古典的社会学の嫡出子)。

第七に、中範囲理論への志向はわれわれの無知の領域を鮮明に浮き彫りにする。


2002.3.10更新(一昨年分)
同文献よりP55

((1)方法論(2)一般的方針(3)概念(分析)(4)経験的一般化(5)中範囲の理論(6)一般理論の関係の図を示しながら)
いくつか大切な点に触れておけば、まず(2)一般的方針は研究上の関心に沿った何らかの考慮されるべき
概念(観察対象を限定づけた変数)と特定の分析枠組みを提供している。

しかし、概念あるいは変数間の経験的関係(その斉一性を含む仮説)にはまだ言及していない。
そうした一般的方針の例として、「人間の意識を決定するのはその社会的存在である」(意識や社会的存在が
変数)といった命題や、「社会システムはその機能的用件を充足できなければ、充足できるまで変動するか
解体する」といった機能的用件分析の一般的公準、さらにマートン自身の機能分析といったものも
この一般的方針に含まれる。

包括的な一般理論(たとえばパーソンズらの「行為の一般理論」)は実質的にしばしばこうした一般的方針の
提示にとどまるケースが少なくない。
これに対して、経験的一般化とは二つ以上の概念(変数)間の経験的斉一性を記述した個別命題のことである。

しかし、経験的一般化はそうした斉一性がなぜ観察されるのかを説明しない。
中範囲の理論はこれら一般的方針(あるいは、しばしば一般理論と呼ばれるもの)と経験的一般化の中間にあって
両社を媒介しながら架橋する、そういう役割を担っている。


リニューアルオープン後、初めての更新です。
でも去年読んでた本だったりする(笑)。

馬場靖雄2001『ルーマンの社会理論』(剄書房草)p32より
「<選択的な/完全な>という区別を、<単純なシステム/「複雑な」環境>という
区別(後者のノイズから前者の秩序が形成される云々)と等置してはならない。

環境においてその諸要素のあいだに「すべてとすべて」の完全な関係が成り立つとしたら、
それはもはや「複雑」ではありえない。」


同文献p42より
「念のために確認しておくならば、「自分自身の<普遍>の個別性を認めること」ないし
「理論の自己否認」を、「とりあえず普遍的な理論を展開しながら、それがもつ限界・一面性を
折に触れて反省・自覚せよ」という「心構え」の問題に解消してはならない。

(中略)

自己否認は、あくまで理論そのもののうちに書き込まれていなければならないのである。
そして自己否認を内包した理論とは、パラドキシカルな理論に他ならない。」


同文献p44より
「問題は、「OOとは何か」ではなく、
「OOについて語るとき、どんな区別が用いられているか」なのである。
そして<システム/環境>の区別は、複雑性の場合と同様自己否認的であると同時に
自己確証的でもある。自己否認的であるのは、<システム/環境>という区別も、
ひとつのシステム(学システム)において生じるのであって、環境において生じるのでは
ないからである。すなわち<システム/環境>の区別は、普遍的でありながら
(まさにそれゆえに)自己とは異なるもの(環境)が存在するのであって、世界を高みから
見下ろしているわけではないことを認めねばならなくなる。

一方自己確証的であるのは、システムについて語ることもシステムとして生じるからである
だからこそわれわれはシステムは「単に分析的な」ものではないということから出発したわけだ。」


2002.6.3更新
なんか最近読めてないですね・・・。
竹田青嗣1995『ハイデガー入門』うーん、なんてわかりやすいんだ。

p69
この諸事物の「道具連関性」は、実は普段はあまり意識されていない。たとえば、大きな釘を
打とうとしてハンマーを使ったら、ハンマーが小さすぎたり、ハンマーの柄が短すぎて釘が
打てなかったりするようなときに、はじめて、諸事物の「道具性」や「道具連関性」は、
おのれ(の欠損)を際立ったかたちで告げる。


p72
事物存在は、その有意義連関性において共同的なものとして一般化され、公共化されることが
できる。一般化され、公共化された事物の「有意義連関性」、これを、わたしたちは事物の
「客観存在」とよんでいるのだ


2002.7.13更新
久しぶりの更新ですな。
杉島敬志編2001『人類学的実践の再構築 ポストコロニアル転回以後』世界思想社より

p78(稲賀繁美「異文化理解の倫理に向けて」)
そもそも「理解」とはいかなる事態を指す言葉なのか。
他人の痛みを理解できないことは非難されうるが、安易に他人の痛みを理解できる、などと
言い張るのはかえって傲慢だろう。
むしろ他人の痛みが共有を許さないという厳然たる事実にこそ、理解という現象の孕む
痛みを見据えるべきではないか。


154(中川敏「人類学の正義と正義の人類学」)
ゲームにのめりこんだプレーヤーにはルールが見えなくなる。
対照的に、ゲームからいちぬけることのできた人間にはルールが見えてくる。

彼女には、飛車が縦横に動くというルールが、不自然な、人間の取り決めによってなりたった、
恣意的なもの、一言で言えば、まさに「規約(ノモス)」に過ぎないことがわかるのだ。

(中略)

大事なことは、のめりこまない限り、ゲームは成り立たない、ということなのだ。
ゲームのルールが見えないことこそが、ゲームがゲームとして成り立つ必要条件なのである。


p322(関根康正「他者を自分のように語れないか?−異文化理解から他者了解へ−」)
「禁煙ファシズム」という逆批判が出るまでに、喫煙の害の認識は社会に浸透してきているらしい。
それでも、煙草をやめない人、やめられない人がいる。(中略)
煙草は中毒と流行の間で吸われ続けている。

この卑近な例を出したのは、私たちが思考をどこからスタートさせるかで大きな違いが生じることを
意識したいためである。話を健康のために禁煙すべしという「あるべき世界」(イデオロギー)から
始めるか、それでも現に喫煙者はいるという「ある世界」(現実)から始めるかとの差異である。


2002.8.18更新
ぜんぜん更新してないので。
某論文より

p188
社会史的研究が政治的プロパガンダになるために良くない、という姿勢は、政治的プロパガンダとは
裏返せば現代社会への強烈な問題提起なのであるから、学問成果の現代社会への還元という点において
再検討の余地があり、現時点では、上で述べた個別的研究、『人類史的研究』との頻繁な相互批判関係を
築くとともに、現代社会への影響に関する認識論的警戒が必要である、と考えておこう。


2002.10.15更新
M.フーコー1969『知の考古学』1981中村雄二訳 河出書房より

かつて或る時期に、考古学は無言のモニュマン(記念物)の学問、惰性的な痕跡の学問、脈絡なき物体および
過去が放置した事物の学問、として、歴史への傾斜をもち、歴史的な言説(言述)による復元によってしか意味をもちえなかった。
少しくそれをもじって言うなら、今日では、歴史が考古学に、つまりモニュマンの内在的記述への傾斜をもつようになっている。


2003.4.26更新
吉澤夏子2002『世界の儚さの社会学シュッツからルーマンへ』勁草書房より

p23
シュッツはまず比喩的に、自然科学の営みが生活世界を数字化していく過程であるなら、
社会科学の営みとは生活世界の内実を類型学として展開していく過程にほかならないと考える。
そしてシュッツにとって、社会科学におけるガリレイはヴェーバーである。(中略)
しかし数学の公式がその当初の意味形成の地盤、つまり生活世界から切り離されて
一人歩きするように、類型学もまたそれが人格という高度に複雑な内容を扱うだけに、
単なる方法を実在だと思い込ませ生活世界の豊かな内容を忘れさせるという危険を常に
孕んでいるのである。


2003.6.8更新
P.L.バーガー H.ケルナー1987『社会学再考 方法としての解釈』(森下伸也訳)より
p5以降より
近代の社会学的なものの見方の中心にあるのは、人間の集合体は、自立的でしかもしばしば隠れた
動力学によって動かされている、という認識である。「社会」とは、(中略)いまだ発見されて
いない規則にしたがって「作動」しているものにあたえられた名称にほかならない。したがって、
そもそも「社会」なるものの存在を知ることができるためには、まず一定の暴露的な視角が無ければ
ならないのである。

(中略)
しかし、このようなことが言えるためには、それにさきだってまず、社会学の本質をなす
非常に特殊なものの見方が存在していなければならない。すなわちそれは、目に見える人間世界の
体系の下には、社会学者の発見を待つ、隠れた、目に見えない利権構造や権力構造が存在する
という見方である。

(中略)
社会学のこうした暴露的特質なかに、社会学の破壊的な性格がひそんでいる。(中略)つまり
社会学は、その特殊なものの見方を社会的現実にむけた最初の瞬間から、それを破壊しはじめる
のである。

(中略)
ここですでに主張しうることがひとつある。それは、社会学者がもし唱導者の役割をはたそうと
するならば、−あるいはもっと正確にいえば、社会学者としてそうした役割をはたそうとする
ならば−かれらはつねに自分の学問と対立せざるをえない、ということである。

(中略)
社会学は本質的に否定的なものであって、逆説的ながら、社会学が何らかの積極的な主義主張に
対して最も大きな貢献をなしうるのは、否定としてだからである。


2003.7.20更新
吉澤夏子『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』より

p23
すでに述べたように、自然科学者たちが何の疑いもなく受け入れてきた自然は、
実はガリレイが数学化した自然、つまり理想化したし自然であって生活世界的自然では
なかった。しかもガリレイは生活世界における内実を捨象するか、あるいは形式と
いっしょに理想化してしまった。フッサールはガリレイの理想化のこのゆがみを指摘
することによって、自然科学の客観的心理が「理念の衣」に過ぎないことを暴露した。

p106
 ルーマンは、「行為システムが不可逆性を生産し、なおかつまた不可逆性をとどめておく
ことができるなら、二つの異なる現在の様式を自由に駆使することができなくてはならない」
という。二つの現在とは、「瞬間の現在」と「持続する現在」をさしている。瞬間の現在は、
次々と止むことなく未来を過去にする。それは、何かを不可逆的なものとして特徴付けるために
必要とされる。持続する現在は、未来と過去を引き離す。つまり未来と過去は、あくまで
未来と過去として(別々のものとして)、しかも同時に、持続する現在のうちに保持される。

p126
ルーマンは、「社会学において、一般的・普遍的な理論問題を育てるときにのみ、一つの変化が
期待されることになる。社会的な認識論は、そうした理論展開の副産物としてのみ生じうる
のである」という。この理論の対象は、最終的には、世界−の自己指示性−である。世界には、
世界についての認識が含まれるのだから、世界を認識するということが、すでに自己指示的である。

ルーマンによれば、認識論の伝統的な前提に対して二つの新しい現象が認められるという。
一つは自己指示の概念があらゆる種類の最終要素にまで拡がったこと。もう一つは、
普遍的理論における対象研究はそれ自身についての研究を含むのでその研究はその対象から
切り離せない、という洞察である。そしてこうした自体を踏まえたうえでなされる理論企図が
オートポイエーシス理論であるという。
(中略)
世界には、ある意味で始まりも終わりもない。純粋な自己指示とは、「すべてが同時に在る」
という事態、いわば循環性(トートロジー)の渦巻きのようなものである。それは瞬時に
消え去ってしまうといってもいいし、無限に続いていくといってもいい。

そしてここでの問題は、それでもなお世界はわれわれにある秩序を備えたものとして
立ち現れているということ、そしてわれわれはそれを認識し理解することができる、という
という点にある。つまり世界はいかにして可能か、そして認識はいかにして可能か、
という問いである。

p133
<できごと>とは、そこではじめて時間や意味が生成される、すぐれた意味での事態であった。
そこでは現在と過去と未来が共存するという明らかな矛盾が可能になっている。
それは矛盾であるから通常は忘れられている。われわれは通常「忘れる」ことによって
世界を受け入れている。この忘れるということがすなわち、ルーマンの文脈では脱トートロジー化
=脱パラドクス化ということになる。もちろん正常/異常の区別は相対的なものにすぎない。
(離人症の人々のことばに耳を傾けると)逆に、正常であるという事態がいかに脆い、
奇跡的とよびうるほど微妙なバランスの上に成り立っているかを思い知らされる。
正常であるということは、偶然にすぎないのである。

p154
「主観的」世界とは、「私が存在しなければ世界は存在しない」「あるいは私にとっての世界が
存在する」といういい方が許されるような世界の在り方を指している。だから私にとって
ある仕方で現出する世界の、その同じ状態が、別の人にとってはまた別の現れ方をするかも
しれないのである。 このことを、ルーマンの用語に従っていえば、世界は偶有的である、ということになる。
もし神の視点に立つことができれば、すなわち「外部から」の観察が可能なら、世界は必然的な
ものとして現れるだろう。しかしわれわれは、けっして世界の外に立つことができない。
世界が偶有的であるのは、世界の状態が常にある人にとってのみ現出しているからである。
そのような意味で世界は「主観的」なものである。偶有的とは、「他でもありうる」ということで
ある。ルーマンのいう「二重のコンティンゲンツ」の「二重」とは、われわれが他者たちとともに
そこに居合わせている、という端的な事実に対応している。他者がいるからこそ、世界は
偶有的なのである。


2003.9.7更新
歴史学研究会編2002『現代歴史学の成果と課題1 歴史学における方法的転回』より
久留島浩「史料と歴史記述-歴史系博物館における『歴史展示』」
p331より
まず、考古資料は、どのように「歴史叙述」に使うことができるのか、ということである。
小野は、考古資料は「沈黙」するものではなく「おしゃべり」だとして、聞き手の研究者の
側に聞き出す能力と聞くときの謙虚さとがあれば、多くの情報が得られると言う。

さらに、考古資料は「実物・実像」であり、文献資料のなかの絵画や文字による情報は、
たとえ具体的であっても「虚像の情報」だとするが、それには大きな条件をつけている。

すなわち、考古資料は、発掘された場所(遺跡)モ含めて実物・実像であること、
「無作為・普遍的な存在であること」に特徴があるが、厳密に言えばそれは発掘調査者に
とってのみ当てはまるとするのである。発掘調査報告書という媒体を経ると、とたんに
「虚像に接することになる」という指摘はきわめて重要である。


2003.10.5更新
野矢茂樹2002『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』哲学書房より

p62
 たとえば「ミケ」という名の論理形式を考えよう。名「ミケ」の論理形式は
どのように把握されるのか、答えは一見単純である。「ミケは猫だ」という命
題が真であることが分かれば、それで「ミケ」という名の論理形式も分るだろ
う。つまり、ミケは猫なのであるから、しかじかの位置をもち、色・形をもち、
重さをもつだろう。さらに、誕生と成長と死がある。そして鳴いたり走ったり、
噛み付いたり障子を破ったり、さまざまなふるまいをする。
 だが、そう簡単にはいかない。「ミケは猫だ」が真であることによって「ミ
ケ」の論理形式が明らかになるのも、われわれがすでに「猫」の論理形式を知
っているからである。そもそも猫の論理形式を知らない人には「ミケは猫だ」
といっても、何も伝わりはしない。つまり、問題は先送りされたにすぎない。
こんどは「猫」の論理形式はどのように把握されるのかと問われねばならない。

p84
 自分自身が定義域に含まれているときには、その結果生じる自己言及文が有
意味であることは保証されている。もしその自己言及文が無意味ならば、定義
域から自分を排除すればよい。解明とはそういうことである。しかし定義域に
自分自身が含まれていないならば、自己言及文はつくることができない。かく
してラッセルのパラドックスは生じない。

P90
 「虚心坦懐」という言葉もいかげんな言葉だが、まあ虚心坦懐に現実を眺め
たとする。そのとき、否定ということが消失してしまうのである。机の上に本
がある。外を人が歩いている。どこかでセミが鳴いている。すべては肯定的事
実でしかない。どうして否定ということが生じるのか。単純にいって、われわ
れが何かをそこに期待するからである。テーブルの上にパンダがいるという事
実の可能性を把握し、「テーブルの上にパンダがいるかもしれない」と思う人だ
けが、「テーブルの上にパンダはいない」という記述を与えるだろう。という
ことは、言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれてい
る人だけが、否定を捉えうるのである。ただひたすら現実を見るだけでは、否
定に対応するいかなる要素も見いだされはしない。すなわち、否定とは現実に
存在する対象ではない。

P148
 「以下同様」という言葉に実質を与えるのが、操作の反復適用なのである。
自然数の場合で言えば「1を足す」という操作を繰り返すこと。「次の数に進
みたければ君がいま数えた数に1を足しなさい。」こうして、いつまででもそ
の操作を続けていける。そう確信したとき、われわれは「自然数を理解した」と
言える。そして、それ以外の仕方で無限にある自然数を理解することは出来な
い。
 『論考』の目標を思い出そう。思考の限界を捉えること。しかし、思考の限
界を思考することは出来ない。思考の限界に立つことは思考しえぬ領域をも考
えることを要求するが、それは不可能である。それゆえわれわれはあくまでも
思考可能性の内側に立ち、そこから思考の限界を画定しなければならない。こ
れは、いまの議論の脈絡から言えば、自然数を把握するにも似たことではない
だろうか。われわれは自然数の果て、最後の自然数などというものに出会うこ
とはできない。いわば、自然数を内側から捉えなければならないのである。こ
のような場合、つまり、「よし、これですべてを尽くした」という言葉で限界
を画定することができない場合、われわれはどこかで「以下同様」という言葉
に出会わなければならない。

P191
 私自身の存在論も、他の存在論も、ともに語りうるものではない。しかし、
その語りえなさの理由は異なっている。私自身の存在論は、私が様々なことを
語りだすことにおいて、その語りの前提として示されてくるだろう。すなわち、
それは語られえず示されうるものにほかならない。しかし、私の論理空間の外、
他の存在論はそうではない。それは示されることもない。私がこの論理空間に
おいて何を語り何を考えようとも、それはただ私の引き受けている対象たちを
示すだけである。どうしたって他の存在論などは示されてこない。それゆえ、
他の論理空間、他の存在論は、示すことさえ出来ない語りえなさなのである。

P207
 先に確認したように、厚紙を動かしたり、声を出したり、文字を書きつけた
り、キーボードを叩いたりする動作主体としての私は否定されない。「ポチが
走っている」という命題が世界記述として何の問題もないように、「私は厚紙
を動かしている」や「私は声を出した」もまた、世界記述として問題なく認め
られる。そこにおいて動作主体たる私は動作が帰属される位置対象にほかなら
ない。
 だとすれば、ここに、その思考内容が特定の人物に帰属される仕掛けがある
のではないだろうか。「ポチはブタじゃないよ、犬だよ。」と彼女が言う。それ
が彼女の思考とされるのは、そう声を発したのが彼女だからである。あまりに
もつまらない理由のように感じられるかもしれないが、それが実情ではないだ
ろうか。そして、ほかならぬ彼女が発した音声が、像として、ポチは犬である
という事実を意味している。


2004.7.17更新

春成秀爾2003『考古学者はどう生きたか−考古学と社会−』学生社より
p116
「気の毒といふよりも滑稽に感ずるのは原始社会の説明である。・・・
唯物史観流の理論のみ跋扈し、たまたま都合のよい資料が摘出されている
に過ぎない。われわれは何よりも資料を以って議論する態度を望むので
ある。・・・ここ数年来この種著作は夥多出版され、其れは確かに従来の
歴史家や考古学者の虚をついたにも拘らず、其の史学的訓練の欠乏の故に
毫も既成史学の牙城を揺すことはなかった。全く本著作達の如く、物を見る
眼も文献に対する批判力もなくして、ただ他人の借物の理論を以って心
易くも日本史を解明したりと信じ、『日本歴史教程』の如きををこがましくも
出すやうでは既成史学の徒はまだまだ枕を高うして安眠出来るであらう。」
(角田文衛による、渡部義通ほか1936『日本歴史教程』第一冊への書評)


2004.7.31更新

ニック・クロスリー(西原和久訳)2003『間主観性と公共性 社会生成の現場』新泉社
p353(訳者あとがき)
社会学の研究と教育の現場では、しばしば「現場」主義であるとか「現場」を重視するとして、
「理論」は不要なものであるといった考え方すらみられる。しかし、現実を見るためには視
点が必要で、「事実」は「理論」を背景にして事実となっているという初歩的な科学哲学的議
論においてだけではなく、「現場」の考察という作業には、まさに社会生成を、つまり人間
や言語の生成をも含めたわれわれの人間・社会がまさに間主観性を「現場」として発生・生
成していることをきちんと捉える基礎理論的考察もまた求められている。こうした意味で
の「現場」の考察なくしては、視点や基礎理論を欠き、現状を追認するだけの単なる記述主
義に陥る恐れがある。調査や実証が声高に強調される最近の経験科学においてこそ、生成
のこうした原理的ないしは論理的な「現場」の考察が問われていると訳者には思われるので
ある。


2005.5.8更新

溝口孝司2004「考古学者はなにを語るのか」『文化の多様性と比較考古学』
考古学研究会より p367より
遺跡の価値の指標は端的かつ単純であることが要求される。しかし、そのような、
端的・単純への指向性が、考古学のみならず一般的コミュニケーションの
領野に広範に広がるコミュニケーションの包括性の再獲得欲求と結びつくとき、
遺跡の価値説明のための端的・単純の「強度」の強化への指向性、すなわち
「やさしい考古学」への指向性と、コミュニケーションの包括性強化のための
「強度」強化戦略、すなわち「極端の物語」への指向性は、相互媒介的にその
一体性を高めてゆくこととなる。


2005.9.23更新NEW!!

『<社会への知>現代社会学の理論と方法(上) 理論知の現在』
刊行にあたってのことばより
現在の社会学には、<社会>はしょせんそれぞれのパースペクティブの
もとでの<社会>にすぎないのだから、それを一般的ないし包括的に捉
える「理論」を探求しようとなどはグランドセオリー時代の誇大妄想を
ひきずっているにすぎない、という雰囲気がただよっている。またその
ことの裏面として、社会学の主要な役割は社会調査によって現実社会を
生活かつ詳細に記述することである、という経験主義の傾向も強まりつ
つある。かくして、それぞれの社会学者がそれぞれの<社会>観のもと
で粛々と論文を積み重ねる「無関心に支えられた平和共存」が現在の学
問的構図である。

どこかで聞いたような話ですね(汗)。「無関心に支えられた平和共存」は
ポストモダン以後の社会問題になってるようです。
当然、学問社会にも適用可能か。


2006.3.26更新NEW!!

ヨハン・ガルトゥング2004『グローバル化と知的様式 社会科学方法論
についての七つのエッセー』(矢澤修次郎・大重光太郎訳)東信堂の解説欄p275より

相互理解を深めていくためには何が必要であろうか。まず必要なのは、
互いに異なる知的様式をもっていることを相互に理解し、互いの立場を
相対化することであろう。これは当たり前のことをいうようであるが、
実際には困難である。ガルトゥングも言うように、「ある知的共同体に
属している人たちは、彼ら自身の属しているその共同体自体の特徴について
はほとんど認識していない。確かに、彼らは彼らとは別の知的共同体の
ありかたについては非常によく特徴付けることができたのであるが、
自分自身に関してはそうではなかった」からである。

知的様式の問題は、知識人の多くが自らの様式が地域性・特殊性を
帯びたものであることを認めたがらず、自らをコスモポリタンと思い込んで
いるがゆえに、自覚されにくいのである。

(中略)

彼らの議論は、それぞれの知的様式を考慮することにより初めて理解され
うるのであり、論じる際にはこの点に考慮しなければならない。さもなければ、
論評者の設定した基準によって恣意的に取り扱うという危険を冒すことに
なろう。