top>Archa的考古学。>子供をダンススクールに通わせる親と実践の論理。
今回は、ダンススクールをとりまく人々(爆)に焦点を当てて、ちょっとした検討を行います。
・・・発掘してる時に、ぱっとひらめいただけなので(笑)、てきとーに受けとめてくださいね。
人生において、自分が一番かっこいいと思う道を選ぶことが幸せだと私は思っていますが(笑)、
そうした人々のなかに、ダンスを学ぶ人々がいます。
彼らは、私が考古学をするのが"かっこいい"と思うのと同様に、ダンスをするのがかっこいいと思っています。
(どちらがよりかっこいいかは、個人的な好みです)
彼らの中には、「今」ただダンスをしたいっっっ、という人もいれば、
「将来」ダンスをおどれておけばかっこいいだろうな、
という動機で練習している人もいるでしょう。
彼らは、自分でそのとき"かっこいい"と思ったことに打ち込む、私と同じタイプです(笑)。
一方で、明らかに「将来」をみこしたかっこよさを求める動きがあります。
それは、 子供をダンススクールに通わせる親 です。
これを見ているあなたにも経験があるんではないですか?
特にダンスに限らず、ピアノ、エレクトーン、習字、野球、サッカー・・・・etc.
なぜ親は、子供に習いごとをさせるのか。
それは、将来をみこしているからです。
「これを今やっておけば、将来かっこいい」
と親は思っています(かっこいいという言葉を、ちょっと広い意味でつかっていますが)。
しかし実はこれは、先の例でいえば、単なる、
「大きくなって踊れたらかっこいいだろうなパラダイム」(笑)に乗っているだけなのです。
これは、今現在のパラダイムです。(注:パラダイムparadigmとは、思考の枠組みとでもしておきます)
つまり(今現在から考えうる)将来を考えた今現在の考えということになります(ややこしいな)。
・・・・ということは、すべて今現在でおこっていることですね(なっとく)。
これを実践の論理といいます(ちょっと強引かな)。
久しぶりの休憩たーいむ。
ぱっぱらぱらぱらー、ぱらぱらぱらー。
・・・・ごほん。
実践の論理とは、「範囲外への容易な適用」を特徴の一つとすることができます。
どういうことでしょうか。
ダンススクールに通わせる親は、今現在「ダンスするのがかっこいいパラダイム」の直中にあり、
その考え方が全てとなっています。
そして親はそのまま「将来もダンスが踊れたらかっこいいパラダイム」へと突入し、子供を通わせるのです。
しかし将来、ダンスが踊れたらかっこいいということが認められる可能性は、まったくもって予想できません。
これはただの思い込みだといえるでしょう。
これを、範囲外への適用といいます。
この場合は、現在かっこいいとされるモノが、将来もかっこいい(だろう)という考えですね。
繰り返すことになるかも知れませんが、こうした考えは、
現在からみたこれからであって、客観化されていない
といえるでしょう。
では、客観化するとは、どういうことでしょうか。
これはつまり、将来も現在も両方見ることができる位置に視点を移すということですね。
・・・・・そんなことはできるのでしょうか。
できます。
それを「一覧図式」といいます(ぶるでうのコトバ)。
これはいわば研究者の論理であって、実践ではありません(研究行為そのものは実践ですが)。
ある対象を研究するものは、必然的に(当時の)過去、現在、
そして将来(今現在からみると過去ですが)を見ることができますよね。
その時に、はじめて客観化されるのです。
つまり、ダンススクールに子供を通わせる親に対して、その場で明らかに、「そんなんかっこよくなくなるでぇ」
といえる日は、来ません(笑)。
客観化し、全体を把握できるようになるのは、全てコトがおわってから、事後検討だけなのです(笑)。
ここまで来て、「そんなんアタリマエだっっ」と思われた方もおられるでしょう。
ではあなた自身も、現在実践の論理で動いていることを自覚していましたか?
・・・・と、少しいじわるな質問をして、話を締めくくります(笑)