top>Archa的考古学。>構造と主体的行為。
はびとぅす概念は、
人々の具体的な活動、つまり主体的行為と、その中に横たわる
制度的側面、つまり構造の間に媒介概念を挟もうとするものである
という話でした。
しかし、ハビトゥスの考え方は突然出てきたものではありません。
その基本には、タルコット・パーソンズさんの「主意主義」と呼ばれる思想があります。
また、ギデンズさんの構造化理論などとの関連性はどうするのか、という問題もあります。
ただし、はーばーますさんは、まだお勉強中なので、なしね(笑)。
でははじめましょうか♪
主体的行為というコトバが、今回はじめて出てきました。
『辞典』をみようと思ったんですが、「主体的行為」という語句は
出てないので(涙)、私が少し書きましょう。といっても、非常に簡単ですが。
主体的行為とは、私たちが、自分の意思で活動すること
・・・といってしまうと簡単です(笑)。
でも確かに、あってます。でもその裏には、哲学史において、
主観論と機械論の対決を経て、機械論優勢の後、主体性の復帰が叫ばれた
ことを覚えておかなければなりません。
そして、構造とは、この項目では、仮に
主体的行為を限定する、(ある範囲内において適用できる)普遍的な社会的規制
としておきます。
・・・・なんか最近私のコトバも難しくなりましたね(いつもかな?)。
簡単な例をだすと、昔の人々はずっと土器をつくっていますが
「土器をつくる」というのは、ある程度の普遍性をもつものと言えるとおもいます。
そこにはつまり、土器作り構造というもの(笑)が存在していたと思います。
ここでちょっとヒトヤスミ・・・・・・・
で、話を続けますが、土器を作るというある範囲内での普遍性はしかし、「土器製作」という
問題では言えますが、「同じ土器製作法で作る」というのは、さらに範囲が限られてきます。
このようにより範囲を狭めていくと、すべてが構造になってしまいそうですが、
私たち考古学を勉強している者には、いかにイレギュラーなモノがたくさん存在するかを知っていますよね。
「な、なんやこれーっっ」「こんなつくりかた誰がするねん」とかいう土器が必ずあるはずです(笑)。
そうしたものに代表されるように、
構造に完全にコントロールされない、人々の自由、つまり主体的行為
が存在します。
こうした考え方を、主意主義として表傍したのがタルコット・パーソンズさんです。
つまり、
構造に規制されて人々が主体的行為をする
ということですね。ここで注意しておくのは、
構造が、人々の活動を決定するのではない ということです。
今回は久しぶりなので長くなりそうですね(笑)。
これについては、別に述べていますので、簡単にすませますが、
ブルデューにとっては、主体的行為(実践)と構造は、
直接つながるものではありません。
構造という決まったものが直接実践に影響・規制を与えるのではなく、その間に、ハビトゥスという心的傾向を
はさむことによって、構造・ハビトゥス・実践というレベルでの分析を生み出すことに成功しています。
そして、ハビトゥスを変換可能な概念として取り扱い、構造と実践双方からの働きかけによりハビトゥスが変換します。
その結果、構造や実践が変化するというプロセスを考えておられます。
私はいまだにぎでんずさんの構造化理論は細かく理解してはいませんが、
基本はぶるでゅーさんと同じ考えのように見うけられます。
つまり、構造と主体的行為を二元性と捉えるのではなく、二重性と捉えたい、という意思表示がそうですね。
そのかわり、ぎでんずさんはぶるでゅーさんのように、構造と主体的行為の間には概念をはさみません。
個人的には、ぎでんずさんの考え方より、はびとぅすを挟んだぶるでゅーさんの考え方の方が、分析概念としては
私は有効だと思います。ぎでんずさんの構造の概念ってすこし広すぎませんか?(まちがってたらごめんなさい)
これまで構造は、大きくは動かないものとして捉えられており、(システム理論にとっての)システムとの差異は
それに負うてきた面が多分にあります。まぁこれはなんとでもなるんですが。
結局構造というのは、目で簡単にはみえない分析概念なのであって、分析する際に、どこまでのプロセスを構造に
くくってしまうのか、という問題にあたります。
そうすると、「構造」という広いコトバで、主体的行為との直接的なつながりを持つ部分と、あまり持たない部分を
ごっちゃにして考えるよりは、分析概念としては、それを分けた方が、よりわかりやすくなるのではないかと思うわけです。
ここまで来て、現代の社会学の、社会に対するだいたいの態度が分かってきたと思います。
最初の方で書いたように、主観重視から機械論へとなって、次にその間のものが出てくる。
うーん、弁証法ですね(笑)