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モノについて。


 ここでは、さとうさんのRes:モノ研究会に触発されて、素人考えながら、モノと考古学について考えてみるコーナーです。
である調で書いてあるのは、はっきりいって推敲せずに考えたまんまを打っているからです。
(いつものくせで、すべて打つ文章は「である調」になってしまうのでした。)

一発入稿(笑)ですので、多分後から後からつじつまが合わないところがでてくるかもしれません。
ま、そのときは「ばかたり!」とぱちこーんと頭をどついてくだされば幸いである(爆)。

20021021

考古学におけるモノについて考える。

まず、モノと人の関係について考えてみよう。


前提1
 考古学に役立たせるための検討であり、いわゆる完全な独我論は成り立たないものとする。
つまり、モノが各個人、社会とは別に確実に「存在」していることを前提とする。
主観的な存在論は、考古学の役に立たないとは言わないが、目的がずれる(哲学的ズラシ)。

 まず、モノが存在する。

 このモノを、人はどのように理解するのか。ここでは、2段階に分ける。

1 知覚=感じる=他との差異を五感で感じる(個人的な五感)。
2 認識=認める=五感の差異を、その人の社会的背景において、既知のものに変換する(個人的な類比)。

 人は、すべてを「分ける」ことでモノを知覚している。
つまり「差異」を認識しないと、すべてが同じものになってしまう。
他のモノとの差異を感じる/認めること、これを「差異の観察」と呼ぼう。
知覚と認識の2つの活動においては、異なる「差異の観察」が行われている。
知覚においては、五感の対象となる範囲のものとの差異の観察。
認識においては、その人の社会的背景における既知のものとの差異の観察。

 対象であるモノには、「新しい場合」と「既知の場合」がある。
既知の場合、知覚で得た「差異のまとまり」のパターン認識によって、既知のものと認識する。
未知の場合、知覚で得た「差異のまとまり」のパターン認識によって、未知のものと認識する。

パターン認識できるまでは、つまり「差異のまとまり」ではなく「単独or統合されていない差異」の場合、
既知、未知は不安定なのかもしれない。

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 知覚と認識は、それぞれ(個人的な五感)、(個人的な類比)と書いた。完全な独我論に陥るわけではないが、
すべて認識は個人的なものである。

しかし、この事実を認めた上での間主観性の奇跡。

「間主観性が存在している」という認識自体が個人的なものである、という批判については、
前提としている「モノの存在」についての議論を行いあえばよい。おのずと反駁できるだろう。
もちろん、すべてに「モノの存在」レベルの間主観性が認められるわけではない。
しかし、社会はそれで動いている。

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20021031

カントを挙げるまでもなく、人がモノを認識するまでの過程には、もうひとつ段階を設けた方が理解しやすい。
それが前回挙げた1「知覚」と2「認識」の間に入るものである。
さらに、知覚の関係性=「差異のまとまりのパターン認識」という係数を一つ加えたのが前回であった。

しかし、これらの事象はすべて個人の心の中でおこることである。
前提1は、「まずモノが存在する」である。

次に出てくる疑問は「個人の心の中で起こる知覚・認識は、果たして間主観性を持ちうるのか」である。
まず、知覚がそのまま間主観性をもつかどうかの議論は置いておく。まずは最も「社会に近い」認識について。

「認識」を個人内のものと定義した以上、間主観性をもつ「認識に近いもの」を「汎認識」と呼ぶ。
この汎認識が認識とはたして 同じ性質をもつものかどうか、がまず問題となる。

汎認識とは、間主観性された「イメージ」が定義であるから、言語・図化によって統一化が
可能なものである(ここではモノについての議論)。

認識とは、「五感の差異を、その人の社会的背景において、既知のものに変換する(個人的な類比)」ことであった。
「社会的背景」という語のみエティックな用語法になる。つまりこの語のみ「その人」を超え出ている。
これは「汎認識」をその人が知覚し、認識したものと考えてよいだろう。

汎認識を知覚し、認識したものという時点で、すでに「その人」の心の中のものである。
つまり、この汎認識と認識とは、上記のような循環構造をもつもので、異質なものとするのが妥当であろう。

汎認識が言語・図化可能という点で、知覚の方がより親和性があると感じるのは、おそらく
⇒汎認識−知覚−認識⇒汎認識−
という一方通行的な認識過程を踏んでいるためであろう。
つまり、汎認識は、過程としては認識に近いが、結果としては知覚に近い。

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20021101

私が認識と汎認識が区別される要素として挙げたのは、

「汎認識」は、それを知覚し、認識したものという時点で、
すでに「その人」の心の中のもの(個人のもの)であるという点であった。

ここでいう「汎認識」は言語・図化されうる、つまり知識の共有化が各個人の外で行われうるという点で、
「モノの存在ひとつ」に対して、一つしか存在しない。

・・・・と考えられるだろうか。否。

知覚・認識は個人的なものであるから、様々なものである。
その様々なものが「偶然」同一(または見た目的に近似)なものが共有化されたもの=間主観化されたものだとしたら。

「汎認識は」言語・図化されうるという点で「ただ一つ」の存在であるが、モノの存在と一対一の関係ではない。

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ここで、これまでの言葉を図化してみる。

モノ(完全な実在)=ただ1つ。

知覚(個人的)=多数。

認識(個人的)=多数。

汎認識(完全な実在、しかし偶然共有化されたもの、イメージ)=ただ一つ。

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ここまでの議論は、基本的にどこでもみられる。
しかしこのレベルを少しずらしてみてはどうか。
ずらすための前提は、先にあげた前提1である。

前提1 まず、モノが存在する。

ここで、知覚のレベルを汎認識のレベルに直結させることができないだろうか。

これは、後に述べるが、考古学における資料−用語−解釈という研究段階を
一つ抜かすことができないか、という議論と同義である。

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20030115

私は、出来る限り厳密な議論を組み立てたい。
それには可能な限り単純な過程を経る必要がある。

複数の過程を経れば経るほど、無数のフィルターにかけられて「存在の状態」とは別のものになってしまうからだ。その点で、知覚ー認識ー汎認識の過程の中で「多数」ある認識という概念は邪魔に思えてくる。

知覚のレベルを汎認識のレベルに直結させることができるということは、知覚がただ一つの汎認識に繋がる前の「多数」の認識への分散を防ぐことができるということだ。果たして可能か。

たとえば「古墳」という用語について。この語は古墳時代の墳墓のことを指すが、弥生時代の墓や飛鳥時代の墓との区別に議論がある。弥生時代の墓とするか古墳時代の墓とするかで、「時代観」が異なってくるとされ、大きな議論となることもある。

しかし「弥生時代」「古墳時代」という「用語」さえ、できるだけ端折りたい私は、近世や近代の時代観論議が現代社会に与える影響の大きさに比べると、非常に小さな問題に見えてくる(いや、結局はどちらも些少な問題に収まるのかもしれない)。このような「認識」を重視する研究をしないにはどうするか。それは論議に関わらなければ良い。

ただ、確かに知覚(ただ一つ)を直接汎認識(ただ一つ)に直結させることはできそうにない。なぜならそれが可能であるならばヴィトゲンシュタインの言う「完全な言語」が可能となるからだ。
では「より厳密な議論」をするにはどうすればよいか。

それには「認識」を考古学の実際の作業に基づいて、さらに分類して行く必要がある。 おそらく現在「認識」に含まれるもののうち、いくつかは削ることができる。

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20030413

考古学に限らず、研究にはいくつかの段階がある。 ルーマンは、コミュニケーションを情報、伝達、理解に分けた。

これは情報(の存在)、伝達行為、理解行為である。 違和感があるのはなぜ情報だけ「存在」なのか、という点である。

これを考古学に置き換えると、資料、概念化、分析とすることもできる(概念化、分析はほかにも置き換えることができよう)。この場合も資料のみ「存在」である。

両者に共通する点は「まず存在ありき」の点である。

考古学においてもやっと考えられるようになったが、資料についての「認識」についての議論。 資料(という存在)と研究に用いる概念は分けなければならない。

・・・果たしてそうか。
この2つを完全に分けてしまうと、資料以外は「浮いた」ものにならないか。私は逆に考える。 資料(という存在)と研究に用いる概念を限りなく同じにできないか。

もちろん全ての概念を限りなく同じにはできない。 ただ、資料と研究を結びつける「認識」や「概念」はすべて同じレベルのものではない。

より厳密な議論をするためにはどうしたらよいのか。簡単なことだ。 資料を認識・概念化する、つまり分類する項目を限りなく資料の性質に近づければよい。