topArcha的考古学。>Unique Archaeology 考古学について。

Unique Archaeology 考古学について。


このページは、2001年4月からしていた議論です。
あくまで名前は仮名ですので、ダレかはわかりません(爆)。
doctorさん、勝手に載せて申し訳ありません。

現在この掲示板は自然に停止中ですが(笑)、こりからどうなるかはわかりません。



5  じゃあ私から  koukogakuto  2001/04/24 00:38

考古学の、他の分野との違いってなんだと思いますか。

「考古学の目的」という点では、他の分野との違いってあるんでしょうか?
まずこれについては、私はない、と思います。

「過去の復元」といったお粗末な答えはおいといて、
「過去の再構築」と言葉を置き換えたところで、結局最終的には
「現代科学」として「人々の役にたつ」ということが
最大目的ですよね。

現代の役に立ち、さらに学問領域内でのアイデンティティを確立させるためには、
考古学はどういった立場をとればいいのでしょうか。

うーん、なぞなぞみたい。 

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7  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:41
 
 いきなり水を差すようですが、そもそも、考古学に限らず学問に
意気込んだ目的は必要なのでしょうか。もっと素朴な楽しみとして
関わっては、いけないのでしょうか。
 私自身はあまり突き詰めて考えたことはないのですが、少なくとも
一見もっともらしい高尚な目的に共感を覚えたことはありません。

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8  お久しぶりです  koukogakuto  2001/04/24 00:42

「考古学に限らず学問に意気込んだ目的は必要か」
という疑問ですね。

これを考えるときには、実は問題が2つに分かれると思います。

ひとつは、個人が学問に取り組む動機としての、
「OOするために考古学をする」というもの。
この場合は、kenkyu-syaさんのおっしゃるもので
十分なわけです。

しかし問題は、学問が趣味の域を超えて大学という
場に制度化されたときからはじまるのだと思います。

このとき、社会的要請に対して与えられた、ある意味特権的な
立場を研究者と位置付けますが、
その場合、具体例としてたとえば

「こんなことをして何を目的としてるんですか」
と聞かれたとき、
「いえ、自分が楽しみだからやってるんです」

と答えると、おそらく大学から地位を追われるでしょう(爆)。

これは埋蔵文化財行政でも同じで、
「単なる素朴な楽しみで発掘をしている」と答えると、
おそらくお金を出してもらえないでしょう。


それは、大学制度にしろ埋蔵文化財行政にしろ、
現代の資本主義社会は、損得勘定で動いているのですから、
当然ですよね。

 
ここまではkenkyu-syaさんも当然お考えのことだと思います。
また、こうした説明を「いかがわしい」とお考えになるのも当然わかります。

しかしよーく考えてみると、現行の「制度」が社会的な認知によって得られているものである以上
(当然昔はこのような制度がなかったわけで、もとからあったものではないですよね)、
それに対する説明責任「アカウンタビリティ」が発生するのは当然だと思いませんか?

だから、考古学は成果をだして、社会に認められることによって、現在の制度を維持できると考えるのが
現代の学問としては正当なのだと思います。

このような言い方をすると高尚に聞こえますが(笑)、
実は一般の方にとってみれば、損得勘定の方が普通で、
考古学的な興味の方が高尚にみえるわけで(爆)。

で、このような成果を出すために、というのが論点です。 

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9  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:43

私が考古学に持つイメージは、プロとしての野球や将棋のようなものです。
だから、強いて言えば、そこで行われていることを見せることが役割であって、
結果が目的ではないと考えています。また、社会的に維持された娯楽ですが、
社会の成員全員に期待される必要もないでしょう。それを求める成員が
一定数存在してさえいれば。考古学は、娯楽としてはやや金がかかり過ぎるの
気もしますが。
 考古学の成果を利用してより良い未来を考えても、それを教訓にして
別の抜け道を考えることができる以上、イタチごっこだと思います。

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10  なるほど  koukogakuto  2001/04/24 00:44

そういう考え方もありますね。

でも「行われていること」つまり過程と言い換えることができるとおもいますが、
現在の考古学では、過程を見せていないと思いますが?。

今人々に見せているのはまさしく「結果」ではないんでしょうか。
そしてその「結果」が人々の娯楽になるというのなら、遺物は
ユンボでさらって採集・・・・なんていうのでもOKになる気も・・・(笑)。

とりあえずは、この質問についてお答えください。
極端な話、社会的に維持される娯楽ということは、考古学は、
遺物をただ何も考えずに採集する活動のみで許されるということでしょうか。 
 

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11  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:45

 確かに、今私達が見せているのは「結果」だと思います。
それは、一つには私達(でも少なくとも私自身は該当しない
ことを望みますが)研究者には、適切な方法を使いさえすれば
揺らぐことのない「結果」に辿り着けるという信念が
確かに存在するために、自らの成果を結果的な部分の卓越性に
よって宣伝するからであると思います。一方で、それに
影響されてか、一般の観客も「結果」の面白さを求めるの
でしょう。
 しかし、仮にもプロの競技ならば、選手も観客も本物を
見極める目が必要でしょう。

 また、言うまでもなく、遺物の潮干狩りなんて問題外です。
遺物は、出土状況によって、決して何もない平面ではない
競技のフィールドを構成するといえば、通じる例えになっていますか。

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12  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:46

えっと、聞きたいことがいろいろとあります。

"適切な方法を使いさえすれば揺らぐことの無い「結果」に辿り着けるという信念"
は、私は遺物の存在自体には持っています。
当然、全ての存在を把握できるとは思ってませんが。

上の信念を「あきらめる」ことによって、考古学が求めるのは、
「人々にアピールするもの」しかありえないのも確かです。

そしてこれは、どんな「学問」においてもあてはまることでしょう。

しかし、そのアピールの内容やそれを生み出す方法が
いわゆる「科学的か」「合理的か」などの「厳密性」(これも当然括弧つきですが)を
守っているかどうかが、そのアピールの正当性・信頼性を高める以上、
考古学はその「厳密性」を守らなければならないのも事実です。

ここまでくると、プロの競技と、学問世界はどう違うのか、
わからなくなりましたね(笑)。

結局、kenkyu-syaさんがおっしゃるプロの競技といわゆる「学問世界」は、
行う方法の本来の意図は、似ているといえるのかもしれません(暴論か?)。
しかし「プロ」自体の意識が「観客」へと直接向いているのが競技世界ですね。

その違いによって生まれる大きな違いは、「観客」が魅惑される考古学研究が、
考古学内部で必ず認められるものとはならないという点だと思います。

「お客様あってのOO」という言葉は、プロ競技には当然当てはまりますが、
考古学に、まったく同様の意味で当てはまるとは思えません。

そこで「プロ」としての考古学者は、観客に「もっと論理をちゃんと考えろ」と
言えるのでしょうか(笑)。それで観客が納得して考えるとはとうてい思えません。

つまり、遺物の潮干狩りで「結果」だけを見せて、観客を喜ばせることはできても、
論理の過程まで見せて、人々を喜ばせることは、現実的に不可能だと思われます。

これについて、どう思いますか。 

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13  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:47

 実は、私も信念は持っています。今や、認識論の世界では
旗色の悪い実在主義に共感する所もあり、遺物自体に留まらず、
自然分類なんかを本気で考えたりもしてしまいます。
ただし、それが単に信念に属することや、そう考えない人が
不合理ではないことや、その人を説得する術を持ち合わせていない
ことは、理解しているつもりです。分類と実在性についての
問題はいつかの題目にとっておきますが。

 ところで、一口にプロの競技といっても、観客の目に
対する意識やサービスの程度は異なると思います。
確かに、野球やプロレスでは単に勝つだけではなく、
魅せるように勝つことを期待されると思います。
しかし、例えばオリンピック(正確にはプロ競技では
ありませんが)では、競技者がそこまで考えて競技する
ことは期待されないでしょう。ましてや、将棋や囲碁では
そうしたことを考えながら競技する人は、ほとんどいないと
思われます。すなわち、競技者自身が見られることを意識して
いなくても、見せるためのプロ競技は成立すると考えます。
ただ、そうしたプロ競技は衰退の傾向にあると言われると、
返す言葉はありませんが。

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14  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:48

分類が恣意的であるかどうか、という議論は、実はそれほど重要では
ない気がしてます。

私たちが「モノを見る」という活動自体は一定の事実を保証されるのかもしれないですが、
「観察した結果表出した」感覚的経験は、すでに絶対的な存在ではない

というのが、現在の私の認識で、
さらにそれを「恣意的でない」と評価する思考はすでに、絶対的なものでないからです。

でも、それが批判されるべきものでないのは、
間主観性の存在と学問基盤の共通性によって、ある程度のゆるやかな
共通性が存在することと、もうひとつ、
分類が、新たなる差異を認識できる可能性をもつから
とすることができると思います。

−−−−−−−−−−−

見せるための考古学研究ですね。
私はこれまで、厳密な意味での思考の発展に寄与する考古学と、
社会に認められるための普及学としての考古学という捉え方しか
してきませんでしたが、kenkyu-syaさんのおっしゃることも一理あることは
わかります。

それが、あいまいに「ロマン」と人々の間で表現される、考古学への
一般の人々の興味を論理的に説明しているということもわかります。

ですが、kenkyu-syaさんの文章からは、「現状分析」としての考古学ではなく、
「理想形」としての考古学を読み取ってしまいます。

どちらを示しているのでしょうか?

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15  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:49

 「現状分析」としての考古学と「理想形」としての考古学
という表現の意味がよくわかりません。前者は、文字通り
現在の考古学のあり方についての分析という意味なのか、
それとも、現在を分析する手段としての考古学という意味
でしょうか?
 これまでの議論の流れでは後者と思われますが、それでは
「理想形」としての考古学が対比される意図がわかりませんが。

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16  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:50

わかりにくい書き方ですいません。

私が言いたかったのは、問題にしている対象としての考古学です。

kenkyu-syaさんの書き込みには、
「観客」に過程をみる姿勢を求めるなど、「こうあってほしい」という
意識を読み取ってしまいました。

当然kenkyu-syaさんも考えてらっしゃると思うんですが、
まずはやはり、「現在の考古学のあり方」(前者です)の分析から出発して、
周辺に期待するのではなくて、自らを変えていかないとだめだと
思うわけです。  

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17  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:52

そういう意味では、私は確かに理想形としての考古学を
語っていると思います。まず、価値判断を伴わずに現状を
分析した方がよかったですか。
 私自身も現状には満足していませんが、考古学が現在の
ような状況にある原因の一端には観客からの注文があり、
そうした相互作用を意識することが重要であって、また
現状を変えるとしても、考古学者側だけというわけには
いかないという点を強調したかったのですが。

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18  なるほど  koukogakuto  2001/04/24 00:53

ちょっとずつ、議論がずれてきている気がするので、
少し補正を行いましょうか。

私は、ずっと考古学の現状分析から、考古学自身が変わる方法を考えてきました。
一方、kenkyu-syaさんは、それを見越した上で、考古学のあるべき姿を述べてきたと
言ってもいいでしょう。

だから私は帰納的、kenkyu-syaさんは演繹的(あくまでイメージですよ)な論の道筋を
採ってきたと思います。

そこで私からの質問はまずひとつ。
それでは現在の考古学が(仮にも表面的に)保持している「学問」的姿勢は
剥ぎ取ってしまうべきものなのですか。

それとも、「学問」自体がそのような性質をもつとお考えですか。

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19  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:54

現在も保持している姿勢とは、何を指していますか?

 考古学という過去に関わる学問が、特別な役割を
果たすべきと考えられてきた、よりよい将来に対する
教訓を示すという役割を担っているという自覚ですか?
それとも、学問全体に共通する、真理を探究するという
意識ですか?

 もし前者だとすれば、これまでも言ってきたように
あまり共感していません。戦後50年以上を経て、その
ような立場を明示することは徐々に少なくなってきていると
思いますし、少なくとも望ましい姿勢として賞賛する
ことは必要ないと思います。
 もし後者なら、我々は真理を知ることは出来るけれども、
真理を知ったということはできないということを自覚して
いれば、もうそれは個人的な動機だし、問題はないと
思います。むしろ、そうした素朴な動機を抜きにして
学問を面白いと思うことはないでしょうし。

 私も質問ですが、koukogakutoさんにとってより重要なのは
考古学の現状の適切な認識ですか、それとも
より望ましい将来の考古学のモデルですか?
もし後者が問題なら、そのモデルを生み出した
過程自身には価値はないというのが私の直感です。
まさに、演繹的な思考ですね(笑)。

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20  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:55

考古学が「現在も保持している学問的姿勢」とは、
まさにkenkyu-syaさんがおっしゃっている2つでしょう。

そしてそれに関する考えも、特に重視しないという点、
もしくは不可能であると考える点で、同じです。

しかし私は、それは「考古学が重視している」学問観であって、
他「学問」では、異なる学問観があるのでは、と思うのです。

上で挙げていただいた2点は、「現状分析として」現在考古学が
考えている学問観でしょう。

しかし、私もそれに満足はできないという感想を持っています。

そこでお聞きしたかったのは、kenkyu-syaさんが、
(1)考古学を「学問」として捉えるのかどうか。
(2)その学問観はどのようなものなのか
でした。
当然これはトートロジー(同語反復:矛盾命題)で、論理としては
成り立ちませんが、説明としては成り立ちます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>koukogakutoさんにとってより重要なのは
>考古学の現状の適切な認識ですか、それとも
>より望ましい将来の考古学のモデルですか?

うーん、これには教科書的な(笑)、「両方」という考えが
当然なんですが、それだけでは何も生み出さないので(爆)、
少なからず意見をいうと、
まず「価値」の認定は、ご存知の通り行動主体が行うもの以外に
他者によっても行われます。

他者に対する「過程の表明」によって、新たな考えが触発される
という事態は当然考えられることで、その意味で、成果の面で、
私は、過程にも価値をおきます(うーん帰納的)。 

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21  ・・・  kenkyu-sya  2001/04/24 00:56

根本的な意味において、「学問」、もしくは「科学」という
営みを、他の分野から区別すべき理由はないという議論を
認めています。しかし現状においては、「科学」は「芸術」や
「技術」(「応用科学」)とはやや異なる性格、もしくは
評価基準を持っているという素朴な直感から逃れられません。
「芸術」とはよりよい結果の選択の有無によって、「技術」とは
方法と結果の優先度によって区別されると思いますが、
いかがですか?

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22  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:57

やっと、新しい道が見えてきましたね(笑)。

まず、

>現状においては、「科学」は「芸術」や
>「技術」(「応用科学」)とはやや異なる性格、もしくは
>評価基準を持っているという素朴な直感から逃れられません。
>「芸術」とはよりよい結果の選択の有無によって、「技術」とは
>方法と結果の優先度によって区別されると思いますが、
>いかがですか?

から。


「芸術の科学」や「技術の科学」という言い方ができるのと同じように、
「科学の芸術」や「科学の技術」という言い方もできると思います。

そしてそれはまた、「学問」も同様だと思いますので、
学問・科学と芸術、技術とは、
(私の言葉でいえば)「次元」が異なるものと捉えてよいと思います。
つまり、お互いがお互いを包摂できる関係ということです。

このような言葉の差異を考える場合、消極的区別と
積極的区別をそれぞれ挙げることができると思いますが、
私からすると、

社会の役に立つ義務を負う=科学
社会の役に立つ義務を負わない=芸術
社会の役に立つ立たないは判断停止=技術

になります(笑)。
当然この場合、「社会の役に立つ」とは、現在の資本主義社会における
貢献をまず意味しますが、私はそうでなくてもよいと考えていますので、
とりあえず思考的貢献ということにしておきます。

「芸術」との区別では、「よりよい結果の選択」に加えて、「合理的推論の選択」
を加えることができるのではないでしょうか。

前の方は、実は理解できませんでした(爆)。
「根本的な意味において」、「他の学問分野」の意味をもう少し
述べていただくと、わかると思いますので、よろしくお願い致します。

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23  はじめまして  doctor  2001/04/24 00:58

はじめての人、はじめまして。専門は・・・・・とかかくとこの掲示板ぽくないんで
やめときます。覗いてみていきなりkenkyu-syaさんとkoukogakutoさんの話があまりにディープだったもんで
ちょっと引いてしまいましたが、気を取り直して自己紹介です。私が考古学に望むのは、
特定のテーマ(今日的意義として自己の所属する社会が共有できる)に対する手段となりうる
のかという点です。例えば僕的に最近気に入っているのはIdentityの問題であったり、社会変化
のトレースだったりします。こういった目的の設定自体は直感的であったり、感覚的であったり
すると思いますが、ここを前提にしないと(思考主体としての自己の存在)、科学的、客観的とい
ったキーワード自体が成り立たないような気がします。抽象的かつ雑駁な自己紹介ですが、どう
かよろしくお願いします。 

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24  ・・・  koukogakuto  2001/04/24 00:59
はじめまして。doctorさん。

これから、よろしくお願い致します。
どうも2人の議論では面白くないので、"三つ巴"でいきましょう(笑)。

最近では、社会の成り立ちは2人(ダブルコンティンジェンシー)ではなく、
3人(トリプル/マルチコンティンジェンシー)だという議論もありますので。


・・・・と、またコ難しいことを書きましたが、
確かに、この掲示板をみると、誰でもヒいてしまうと思います(爆)。

でも、ある哲学者が言った言葉ですが、
「哲学は、ダレもが行うことを研究する点で、最も具体的な学問である」

という話を私は気に入ってまして、このような議論は
「ゆっくりと」ですが、やっておいて損はないと思います。
いや、今しなければならない問題なのかもしれません。


で、doctorさんが興味を持っている点は、
考古学が、現代社会の特定テーマの問題に貢献できるのか、ということですね。

私もそれを常に考えています。
しかし、この前飲み屋で(笑)話しましたが、
歴史学が「物語」としてのイデオロギーにならざるをえない以上、特定テーマに対する貢献も、
イデオロギーにしかなりえないと思います。

これを防ぐにはどうしたらいいのか、という問題をずっと考えてました。
私は、歴史学=物語がイデオロギーになるのは、一方向的性格をもっているからだと思います。

だから、それを防ぐためには・・・・と考えたわけです。

・・・・以下次号(爆)。

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25  はじめまして  kenkyu-sya  2001/04/27 19:49

 ようやくたどり着きました。ちょっと、機械オンチなんで。でも、次号を見てからでないと、何も言えない気が。

 ちなみに、正確な表現は覚えていませんが、ある哲学者が言った私の気に入っている言葉は次のようなものです。
 「優れた哲学の唯一の欠点は、それが間違っていることである」

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26  第2号  koukogakuto  2001/04/28 23:40

>「優れた哲学の唯一の欠点は、それが間違っていることである」

いやぁ、そりはやばい・・・(笑)。

前号の続きですが、それほど明確な論理を
もつわけではありません。

一方向的になるのを防ぐには、物語をつくらなければいい。

考古学が行えるコトはただ一つ、差異の観察です。
差異の観察において重要なコトは、「視点」です。

私は考古学を歴史学でなく、
それを包括した社会学と捉えているのですが、

それは、差異の観察による新たな視点の提供作業に
伴って、それを追試する人の思考を触発すること
を成果として考えてもいいと考えています。

もちろんその思考というのは単なる考古学的な
思考ではなく、ムズカシイ言葉でいえば
主意主義的な思考に触発を促すことになります。

主意主義的とは、いわゆる、

自由に行動する「主体的行為」or「実践」
それを規制する「構造」

の両者がお互いを規定しあうという関係の視点です。

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27  思いつくまま  kenkyu-sya  2001/05/02 19:46

 話がkoukogakutoさんの思うつぼに向かっていません?(笑)

 どうも、今回の内容は、物語を伴わない差異の
観察ということがあるように読めますが、差異を
観察する視点こそは物語そのものではないですか?
だから、望ましいイデオロギーと望ましくない
イデオロギーの区別は、議論することができると
思いますが、イデオロギーを伴わない研究は
ありえないと考えます。

 ところで、歴史学や考古学、もしくは社会学という
分野の内容が本質主義的に規定されているのでは
ない以上、私達の営みを何と呼ぶかという問題は
ちょっと気がはやいですね。

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28  そのまま。  koukogakuto  2001/05/05 12:01

>  話がkoukogakutoさんの思うつぼに向かっていません?(笑)

こ、こりは・・・・、その通りです(爆)。

−−−

そうですね。研究に限らず、イデオロギーを伴わない
行動は、ありえないといえます。
おっしゃる通りです。
(これまでの)物語的歴史学は、その点で
「安易にゆがめられたイデオロギー」
と言えると思います。

>差異を観察する視点こそは物語そのものではないですか

というご質問に関しては、「物語」という概念が、
kenkyu-syaさんのおっしゃるものと私の考えるものとは
違うのだと思います。

そして私は私のいう「物語」概念が、現在一般的な
意味であるとおもうんですが・・・・。
kenkyu-syaさんの「物語」は、イデオロギー/主張と同値では
ないでしょうか。

(野家さんおのおっしゃる「ナラトロジー(物語論)」が
どうなのかは、私は知りません(爆)。)

その点でいえば、当然研究とは意見表明ですから、
研究は全て差異の観察によって物語/意見表明を
行うわけですね。

でもそこで、歴史学の素朴な「物語をつくらなきゃいけない」
症候群からは、一度はずれて、その前で止めておきながら
思考を触発させようとするのが意図です。


>  ところで、歴史学や考古学、もしくは社会学という
> 分野の内容が本質主義的に規定されているのでは
> ない以上、私達の営みを何と呼ぶかという問題は
> ちょっと気がはやいですね。

でもそれだと、ただの批判(悪しきポストモダン?)
だけになってしまうのではないでしょうか。

本質的に、が問題ではなくて、
現状からの打破が必要なんですから、
現状としての内容の検討が大切なんだと思います。

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29  お返し  kenkyu-sya  2001/05/07 17:15

 いつも説明が足りなくてすいません。
 まず前半の点。
差異は視点の取り方によって無限にありますよね。
その中で、幾つかを意味のある差異として選択し、
提示するということは、それを選択する基準が
我々の中に先行して存在していることになると
思います。すなわち、一般的な意味での物語が
伴わなくても、イデオロギーとしての物語を
消去することは出来ないのではないでしょうか?

 つづいて後半の点。
koukogakutoさんは、とにかく現状がどうであっても、
現状を変えるということそのものに価値を
認めているのですか?
多分、私の中には、現状がどうであっても、
現在の我々にとって目指すべき目標があって、
それから分野の内容が規定されると思うようです。
しかし、現在の考古学ははっきりした現時点での
目標が確認されていないので、例えば、koukogakutoさんの
ような研究スタイルを社会学と呼ぶべきか、
正真正銘の考古学と呼ぶべきか、判断できません。
もちろん、私のようなゲーム感覚なら、分野として
分ける必要そのものがないと思いますが。


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30  しっぺ返し  koukogakuto  2001/05/09 23:52

まず前半の点。

>一般的な意味での物語が
> 伴わなくても、イデオロギーとしての物語を
> 消去することは出来ないのではないでしょうか?

はい、そうです(笑)。
「イデオロギーとしての物語」という言い方は
kenkyu-syaさんにとっては同語反復的なのだと
私は思いますが、

「研究者」が主張すべきイデオロギーは、「選択する基準」、
つまり「視点」である、ということを言いたいのです。
視点は常に思考によって形成し/されますから、それが
思考の触発に役に立つということです。

それを、歴史学という名において、
「イデオロギーとしての物語」を作るのは、
やめときましょう、といいたいのですが、
これについてはどう思いますか。

"そりは、歴史/考古学じゃないっっ!"というのはなしで(笑)。
 それだったら、自分から考古学の世界を狭めてることに
なりますし。

  つづいて後半の点。
> koukogakutoさんは、とにかく現状がどうであっても、
> 現状を変えるということそのものに価値を
> 認めているのですか?
> 多分、私の中には、現状がどうであっても、
> 現在の我々にとって目指すべき目標があって、
> それから分野の内容が規定されると思うようです。
> しかし、現在の考古学ははっきりした現時点での
> 目標が確認されていないので、例えば、koukogakutoさんの
> ような研究スタイルを社会学と呼ぶべきか、
> 正真正銘の考古学と呼ぶべきか、判断できません。
> もちろん、私のようなゲーム感覚なら、分野として
> 分ける必要そのものがないと思いますが。

この質問には、実は面食らいました。
私もやはり一方向的な思考を持っているようで、
kenkyu-syaさんの演繹的な(笑)考古観は、私の帰納的な(爆)
考古観と異なるようです。

面白いですね。

私がこの掲示板の初めてのほうで書いた、

考古学という"学問"を成立させてもらっていることに
よって発生する「説明責任」

という考え方について、kenkyu-syaさんはどう思われますか。
私だけが、ただそうだ、と思っているわけではなく、
おそらく最近の学問観は、たいがいこうなってきていると
思うのですが。

その論に対する批判をする論拠が私にはい、ということも
含めて、私はこうした考え方をもっています。

あと、現代のいわゆる「科学」
(kenkyu-syaさんはこれを目指していないのだと思いますが)
を、一般には目標とすることが言われますが、

それプラス、

学問としての義務(?)として、現状批判
(もちろんイイコトも悪いことも含めて)が
あると私は考えています。

だから、「現状打破としての・・・」
という思考を持ってしまいます。

これについて、どう思われますか。

あと、考古学とか社会学とかいう言い方が、
もうできないのかもしれません。現在では。 

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32  今週2回目ですね  kenkyu-sya  2001/05/11 18:56

 「イデオロギーとしての物語」については、そろそろ
抽象的な議論が困難になってきましたね。というのも、
視点といっても、端的に単語とかではないですし、
物語といっても、我々が作れるものは、映像のように
途切れのないものではないですし、実際にどの程度の
修飾を含めると物語と呼ぶか、という問題になって
いませんか?

 学問の説明責任については、その言葉ほど特定の
果たし方があるとは思っていません。前にもいったと
思いますが、考古学という分野を社会的に維持するに
当たって必要なコストに対して、その程度のコストなら
遊びとしてでも払ってよいと、社会の同意を得られるならば、それでよいというのが私の立場です。

 現代のいわゆる「科学」とは、どのようなものを
指していますか。また、それを目指すという同意は
本当にありますか?

 ところで、少し思ったのは、私が現状というものに
あまり拘らないのは、ある考えの妥当性はその起源には
全く関係しないという観念に起因しているような気が
してきました。


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33  返事おくれぎみ・・・  koukogakuto  2001/05/13 07:16

(1)
研究の主張が全てイデオロギーである以上、
どの程度の「お話」までが、物語となるか、という
ことにおちつきそうですが、

前にも言ってるように、それではやはり抽象的な
レベル、いや「大雑把」なレベルにしかならないと
思います。

もちろんこんな話をしてる時は、いつも具体的なコトを
考えているワケで・・・・。
抽象的・一般的な話ではなく、実際に「差異の観察」が、
今話をしている「物語」と同じような
イデオロギーとしての機能を有効に果たしえるのかどうか、

この二つを(本当はもっと詳細に分類すべきですが)
同じイデオロギーとくくってしまって、どっちも
ダメだ、というのは私にとっては乱暴な議論に聞こえます。

最近の歴史教科書問題でも、自由主義史観だけでなく
今までの歴史学も同様に批判されているのは、今まで
一方向的な、素朴なナショナリズムを生み出しやすい
方向性を持っていたことだと思います。

考古学の全てがそういう傾向をもっているとはいえませんが、
そのような事態をいかに防ぐか、という観点も
必要だと思いますし。

(2)
学問の説明責任については、今の状況が、
「その程度のコストなら遊びとしてでも払ってヨイ」
状況なのかどうか・・・(笑)。
kenkyu-syaさんはとりあえず今の状況を異常だと思っている
わけですね。

(3)
うーん、科学を目指すという同意・・・。
これは得られないかもしれません(笑)。

今の考古学者の方々が、どのような意図を持って
研究をなさっているのかは当然知りませんが、
誰でも考えている(だろう)と思うのが、
「客観的」というキーワードだと思います。

当然「客観的」という言葉にも素朴なモノや科学哲学的な
モノもあるわけですが。

でもなんにしても、「客観的でなければならない」という
思考は、無意識にでも(自然)科学を意識している
のだと思いますが。
私がここでいっている科学とは、
「(本当はムリだけど)目標としての自然科学」
を指しています。

(4)
ある考えの妥当性はその起源にはまったく関係しない
という観念

そこで大きな違いが起きているのかも(笑)。

起源というほど古いものではないですが、現在の考えの
妥当性は、「承認を得られている(間主観性)」という意味で、
そのモトとなる思考は、ムカシとつながっているのだと
思いますが・・・・。

kenkyu-syaさんは因果論を否定されるんでしょうか
(私も肯定するかといわれれば難しいですが)。

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35  今週は協会に行きます  kenkyu-sya  2001/05/16 17:42

 koukogakutoさんには、観察の視点と物語とを区分するような、何かの目安でもあるんですか?

 ところで、近年の認識論的な議論に従えば、科学は
客観を求めていくという、科学者以外の人々の科学観が
問題にされていると思います。だから、科学を目指すということと、客観を目指すということの違いを、
考古学の分野でも議論すべきですね。もちろん、後者は「実在」しないと考えていますが。

 最後の点は補足しておきます。確かに、現在の考えを妥当と認める根拠は、現在の観主観的な
同意だと思いますが、現在に対する批判の妥当性は、現存の同意には依存していないのではないですか?


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36  日曜日は行く予定。  koukogakuto  2001/05/16 23:54

>  koukogakutoさんには、観察の視点と物語とを区分するような、何かの目安でもあるんですか?

私の前投稿での趣旨は、区分せずにイッショクタに
議論をすると、全てがダメになっちゃうので、

現代社会に適合するように、もう少しその「区分」について
厳密な検討をしましょう、ということです。
 
>  ところで、近年の認識論的な議論に従えば、科学は
> 客観を求めていくという、科学者以外の人々の科学観が
> 問題にされていると思います。だから、科学を目指すということと、客観を目指すということの違いを、
考古学の分野でも議論すべきですね。もちろん、後者は「実在」しないと考えていますが。

そうですね。どうも、「あるからある」「見えるからしょうがない」風の
考えが多すぎますね。素朴な意味でも。
そしてkenkyu-syaさんが指摘されるように、「科学観」は、
おそらく周辺分野にとっての妄想に過ぎない(言い過ぎ?)ため、
それぞれの学問が、社会とどう関わっていくか、
という現実的な検討からはじめた方が、
「演繹的」に、崇高な目的からはじめるよりも、
色々な意味でやりやすいのだと考えています。

 
>  最後の点は補足しておきます。確かに、現在の考えを妥当と認める根拠は、現在の間主観的な同意だと思いますが、
現在に対する批判の妥当性は、現存の同意には> 依存していないのではないですか?

現在に対する批判の妥当性は、現存の同意の「存在」に
依存しているのではないですか?

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37  ごぶさたしておりました  kenkyu-sya  2001/06/05 19:17

 ごぶさたしておりました。

 観察の視点と物語の区別については、たたき台を
下さい。しばらく考えてみましたが、有望そうな
出発点が思い浮かびません。

 それと、現在に対する批判の妥当性が、現存の同意の
「存在」に依存するという意味は、それがなければ、
批判の対象がないという意味ですか? 

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38  こちらこそ  koukogakuto  2001/06/10 12:13

観察の視点と、物語の区別のたたき台とのことですね。

これは、私が話をしました通り、抽象的な議論は
できません。
なぜなら、観察に留まるか、物語に発展するかは、
それに影響を受ける現代社会が規準となるからです。

だから、同じ議論が起こる場合、昔では観察に留まった
議論が、現在では物語になるかもしれません。

ということは、この議論については、実際の話でもって、
今現在の思考で判断し、それが物語になるか、そうでないのか、
という方向に持っていかなくてはいけません。

で、ここで実際の話をするわけですが、その前の議論として(笑)、

「物語」自体は、全てワルイことかといいますと、
そうではないと思います。

物語は裏を返せば、「現代社会への思考的還元」を意図している点で、
私の言う「説明責任」という実践の一つだと思います。

しかし思考が、「わが国」というナショナリズムになっている
点が、最も注意すべきだと思います。

かといって、リベラルな比較研究をするには、
あまりにも領域が広く、「リアリティの追求」も
できそうにありません。

そこに一番の問題点があると思います。
マクロ−ミクロの視点の統合ができない、ということですね。

とりあえず、これはここまで。

で
> それと、現在に対する批判の妥当性が、現存の同意の 
>「存在」に依存するという意味は、それがなければ、 
>批判の対象がないという意味ですか?  

ということですが、その通りです(笑)。

えらい思弁的だなぁ、とのお考えをお持ちでしょうが、
私が考えている「社会的暴露」という、学問の義務から
すると、この問題は回避し得ないのだと考えています。

では。